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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~「谺して...  」の句~ (39)

2016年01月16日 | 俳人杉田久女(考)

新聞社主催による「日本新名勝俳句」に寄せられた応募句数は10万3207句、選者の高浜虚子はほぼ半年間にわたり選句に没頭し、まず応募句より2万句を選び、そこから更に1万2千句を選び、更に1万句にしぼり、入選句を決定したそうです。

催しの規模、応募句数において、俳句史を通じて空前絶後といわれ、最隆盛期の『ホトトギス』の底力と選者の虚子への絶大な信頼をそこにみることができると、多くの研究書は述べています。
<高浜虚子>
        
       
         「谺して 山ほととぎす ほしいまゝ」

人口に膾炙している帝国風景院金賞受賞の久女のこの句は、自然を描写しながら深山幽谷の清々しい空気の中に静かに佇み、鳥の声に耳を傾けている彼女の姿が彷彿としてくるような気がします。この句の要は下五の「ほしいまま」で、この五文字を得るために、彼女は何度も英彦山に登ったようです。

受賞後に、この句について書いた「新日本名勝俳句入選句」という文章が『久女文集』に載っているので、その一部を引いてみます。

〈青葉につゝまれた三山の谷の深い傾斜を私はじっと見下ろして、あの特色のある音律に心ゆく迄耳をかたむけつゝ、いつか句帳にしるしてあったほととぎすの句を、もう一度心の中にくりかえし考えて見ました。ほととぎすは惜しみなく、ほしいまゝに、谷から谷へとないています。じつに自由に。高らかにこだまして。
その声は従来歌や詩に詠まれた様な悲しみとか、血をはくとかいう女性的な線のほそい女々しい感傷的な声ではなく、北岳の嶮にこだましてじつになだらかに。じつに悠々と、
切々と自由に。
英彦山の絶頂に佇んで全九州の名山をことごとく一望におさめうる喜びと共に、あの足下のほととぎすの音は、いつまでも私の耳朶にのこっています〉

久女はホトトギスの声を悠々とし自由だと捉えたんですね~。その時、ほしいままという言葉が天啓のように胸に浮かび、この句が完成しました。

久女は英彦山で白蛇を見て霊感を受け、この句を作ったとか、髪を茫々とふりみだし、幽霊のように山中をさまよい歩いて作句したなどの、例によって例のごとくの〈久女伝説〉があり面白いですが、そんなことで俳句は出来ないのは誰にでもわかることです。久女のこの文章は美しく、ほととぎすの鳴き声の余韻が読む人の胸に響いてくる気がします。

帝国風景院賞金賞受賞句は20句ありますが、今日、それぞれがその俳人の代表句になっています。久女の句以外の金賞受賞句には

   「啄木鳥や 落ち葉をいそぐ 牧の木ゝ」  水原秋櫻子

   「さみだれの あまだればかり 浮御堂」  阿波野青畝

などがあります。 

(画像はネットよりお借りしました)     


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俳人杉田久女(考) ~帝国風景院賞金賞受賞~ (38) 

2016年01月13日 | 俳人杉田久女(考)

久女が最後の住居となった小倉市上富野菊ケ丘560番地(現在は小倉北区上富野1丁目4番29号)の家に引っ越したのは、昭和6(1931)年3月でした。結婚後4度目にして最後の住まいで、40才の春から55才の秋までの約15年間をここで過ごしました。

        「汐干潟 見ゆる二階に 移り来し」

この住まいは久女をなぐさめたらしく、後に自身の俳誌『花衣』2号に書いた「落椿」というエッセーで、この家のことを綴っています。久女の長女、石昌子さんの著書『杉田久女』には、この頃には「父も俳句を嫌ったとは申せませんでした」とあります。何だかホッとしますね。

久女が俳句生活の上で、華々しい脚光を浴び充実した時間を過ごしたのも、又、その栄光が一気に暗転し、失意に打ちひしがれた晩年を送ったのも、この家でした。

まだ引っ越し荷物の片付けも終わっていない4月に、久女に嬉しい知らせが届きました。それは、かねて応募していた「新日本名勝俳句」の帝国風景院賞に久女の句が入賞したとの知らせでした。久女はどんなにか嬉しかったことでしょう。

      「谺して 山ほととぎす ほしいまゝ」

この句が10万余句のうちの20句に入って金賞を受賞したのです。この時、久女は41歳でした。

もう一つの句

      「橡(とち)の実の つぶて颪(おろし)や 豊前坊」

は、銀賞を受賞しました。

40数年前に私が初めて見た、高住神社(豊前坊)の参道脇にある久女の句碑は、この帝国風景院賞銀賞受賞句を刻んだ句碑だったと、久女のことを調べていくうちに知りました。

金賞を受賞した「谺して 山ほととぎす ほしいまゝ」の句碑は、英彦山奉幣殿表参道のすぐ下の左側の木立の中に立っています。建立者は久女の娘さんの昌子、光子姉妹で、久女の没後20年を経た昭和40(1965)年に建てられたそうです。
<谺して...の句碑>

この様に、昭和初年頃から俳句に復帰した後の旺盛な句作活動は、帝国風景院受賞という大きな実を結びました。それは久女にとって最高の栄誉であり、これにより久女の名声が俳檀に定着したことは間違いない事実でしょう。


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俳人杉田久女(考) ~日本新名勝俳句募集~ (37)

2016年01月09日 | 俳人杉田久女(考)

昭和5(1930)年8月には東京日日新聞社と大阪毎日新聞社が共催で「日本新名勝俳句」を募集しました。これは新聞社が選んだ日本新名勝百三十三景のうち、どれかを選んで投稿するというものです。

新名勝百三十三景には国内の山岳、渓谷、瀑布、河川、湖沼、平原、海岸、温泉が網羅され、季題は自由、選者は高浜虚子で、最優秀な句、20句を選び帝国風景院賞として1句100円を贈るという催しです。

虚子は『ホトトギス』10月号で「諸君に告ぐ---特に本誌の読者は奮ってこれに応募し、現地の風景を写生し、優秀なる俳句を其等名勝の地にどどめられんことを望みます」と檄を飛ばしました。

九州近辺の指定名勝地は雲仙岳、阿蘇山、霧島山、英彦山、耶馬溪、球磨川、唐津松浦潟など18か所で、久女の住む小倉に最も近いのは英彦山でした。
<英彦山>

英彦山は福岡県と大分県の県境にまたがる山で、その昔は修験道の霊場でもありました。久女は英彦山に心ひかれ、それまでもたびたび訪れ、またエッセーに何度も綴っています。

好きな英彦山が指定名勝地に入っていることで、久女にはこれに応募するという創作の目標が出来、句作になお一層励み、そして英彦山に何度も行ったことだろうと思います。

(写真はネットよりお借りしました)
 
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俳人杉田久女(考) ~吉屋信子の捏造~ (36)

2016年01月07日 | 俳人杉田久女(考)

久女は虚子の次女星野立子が主宰する『玉藻』創刊号に「御創刊を祝して」という祝賀文を寄せています。

その祝賀文は〈御創刊の玉藻が六月一日に出ます由。まだ婦人向の俳誌というものは類例がない事でありますし、必ず全国的に異常な興味を持ってむかえられる事と、今から私共も大きな期待をもってお待ち申し上げています〉で始まり、全国の女流を一つに結び付ける婦人だけの俳誌があればと、いつもひそかに願っていたが、昭和女流の先端をゆく立子氏が、
東京からそんな俳誌『玉藻』を創刊されたことは喜ばしい、などと綴っています。

そこには久女の悪意や皮肉などはまったく無く、初めての女性俳誌創刊への期待が伝わってくる祝賀文です。

又、『玉藻』消息欄には〈杉田久女さんよりのご寄付を喜んでお受け致しました事を付記いたします〉とあるそうです。

しかし、多くの研究書が指摘している事ですが、昭和39年7月に新潮社より刊行された吉屋信子著の小説『底の抜けた柄杓』にある「私の見なかった人 杉田久女」の中には、このことに関し次の様な記述があると。

その記述とは〈その頃、恩師虚子は愛娘星野立子の才能に望みを嘱して女流俳誌『玉藻』を発刊させた。『玉藻』の創刊号を久女に贈呈すると、その封も切らずに送り返されてきた。その『玉藻』の入った紙袋の表には久女の文字が落書きのように記してあった。「まだ貴女が俳誌を出すのは早いと思う。もうしばらく勉強を乞う」という様な意味が書きつけてあった。虚子門下の人々は子煩悩の先生の子女をうやまうことひとかたでなかった。だが久女はどうかしていた。もうだれをも見さかいなく、まるであばれん坊の振る舞いを人に示した〉と。 

吉屋信子のこの作品は小説としているものの、登場人物にも実名が使われ、俳句も久女の俳句が使われています。なので読んだ人は誰でも、これは久女のことだと思うのは当然です。

久女がしていない振る舞いをしたかのように書いた、これは明らかに吉屋信子の捏造でしょう。吉屋信子は『ホトトギス』と関係があった人で、そちら側から何か働きかけがあったのかもしれません。

吉屋信子は当時のベストセラー作家なので、久女をよく知らない一般人に彼女の書く久女像が信用されてしまいました。その上、著名な評論家で小説家の戸板康二までが〈現存する資料としては、この吉屋信子の聞き書きが最も信憑性が高い〉と、書いたことも、それに輪をかけることになったようです。この様なことが〈久女伝説〉などという、ゆがめられた人物像ができるきっかけの一つになったのだと思います。

加えて言うと、吉屋信子のいう久女が紙袋の表に書いたという「まだ貴女が俳誌を出すのは早いと思う。もうしばらく勉強を乞う。」という言葉ですが、これは虚子の周りの人々が、星野立子
や『玉藻』について思っていたけれど、口には出せない言葉だったのではないでしょうか。

吉屋信子もそれを察知して、久女の言葉として仮託したのではと、思います。久女にとっては非常に迷惑な話ですが...。まだ経験も浅い27歳での俳誌主宰は、たとえ虚子という後ろだてがあったとしても、早すぎるように感じますし、力不足であったことは誰の目にも明らかでしょう。

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穏やかな元旦

2016年01月03日 | つれづれ

今年のリラ地方の元旦は穏やかなお天気でした。暖冬だからか、みんな風邪も引かずに元気に年越しできました。

大晦日、二日と子供達一家が集まり賑やかな、騒々しい日々でしたが、今日はいつもの静かな日常が戻りました。

毎年、新年を迎えるいけ花や、お祝い飾りなどは玄関に置きますが、今年はリビングに置いてみました。普段ちょっとした物を置いているリビングの壁側を整理して、壁一面を使えるようにし、掛け軸を真ん中に、お祝い飾りといけ花を両側に置いてみました。

掛け軸は床の間を飾るもので、こんな所に掛けるものではありませんが、亡き父が持っていた普段使いの掛け軸を、今年はお正月の間だけリビングに掛けてみることにしました。

私の家のリビングは何となく洋風ですが、和の掛け軸と違和感なく調和している気がします(単なる自己満足か?)。

お花はロイヤルフラワーのコーナーという形式で活けてみました。この形式は部屋の角を飾るのにむいています。洋風の部屋にはやはり和風のいけ花より、
こんな感じのものがあいますネ。


まだ孫達が小さかった頃は、掛け軸をリビングに飾るなんて考えられませんでしたが、少し大きくなったので、こんなことを考える余裕が私に出て来たのでしょう。子供達にも好評で嬉しくなりました。

毎年のことながら、今年も明るく
気に過ごせればと思います。どうぞよろしくお願い致します(^-^♪

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