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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~帝国風景院賞金賞受賞~ (38) 

2016年01月13日 | 俳人杉田久女(考)

久女が最後の住居となった小倉市上富野菊ケ丘560番地(現在は小倉北区上富野1丁目4番29号)の家に引っ越したのは、昭和6(1931)年3月でした。結婚後4度目にして最後の住まいで、40才の春から55才の秋までの約15年間をここで過ごしました。

        「汐干潟 見ゆる二階に 移り来し」

この住まいは久女をなぐさめたらしく、後に自身の俳誌『花衣』2号に書いた「落椿」というエッセーで、この家のことを綴っています。久女の長女、石昌子さんの著書『杉田久女』には、この頃には「父も俳句を嫌ったとは申せませんでした」とあります。何だかホッとしますね。

久女が俳句生活の上で、華々しい脚光を浴び充実した時間を過ごしたのも、又、その栄光が一気に暗転し、失意に打ちひしがれた晩年を送ったのも、この家でした。

まだ引っ越し荷物の片付けも終わっていない4月に、久女に嬉しい知らせが届きました。それは、かねて応募していた「新日本名勝俳句」の帝国風景院賞に久女の句が入賞したとの知らせでした。久女はどんなにか嬉しかったことでしょう。

      「谺して 山ほととぎす ほしいまゝ」

この句が10万余句のうちの20句に入って金賞を受賞したのです。この時、久女は41歳でした。

もう一つの句

      「橡(とち)の実の つぶて颪(おろし)や 豊前坊」

は、銀賞を受賞しました。

40数年前に私が初めて見た、高住神社(豊前坊)の参道脇にある久女の句碑は、この帝国風景院賞銀賞受賞句を刻んだ句碑だったと、久女のことを調べていくうちに知りました。

金賞を受賞した「谺して 山ほととぎす ほしいまゝ」の句碑は、英彦山奉幣殿表参道のすぐ下の左側の木立の中に立っています。建立者は久女の娘さんの昌子、光子姉妹で、久女の没後20年を経た昭和40(1965)年に建てられたそうです。
<谺して...の句碑>

この様に、昭和初年頃から俳句に復帰した後の旺盛な句作活動は、帝国風景院受賞という大きな実を結びました。それは久女にとって最高の栄誉であり、これにより久女の名声が俳檀に定着したことは間違いない事実でしょう。


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