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俳人杉田久女(考) ~吉屋信子の捏造~ (36)

2016年01月07日 | 俳人杉田久女(考)

久女は虚子の次女星野立子が主宰する『玉藻』創刊号に「御創刊を祝して」という祝賀文を寄せています。

その祝賀文は〈御創刊の玉藻が六月一日に出ます由。まだ婦人向の俳誌というものは類例がない事でありますし、必ず全国的に異常な興味を持ってむかえられる事と、今から私共も大きな期待をもってお待ち申し上げています〉で始まり、全国の女流を一つに結び付ける婦人だけの俳誌があればと、いつもひそかに願っていたが、昭和女流の先端をゆく立子氏が、
東京からそんな俳誌『玉藻』を創刊されたことは喜ばしい、などと綴っています。

そこには久女の悪意や皮肉などはまったく無く、初めての女性俳誌創刊への期待が伝わってくる祝賀文です。

又、『玉藻』消息欄には〈杉田久女さんよりのご寄付を喜んでお受け致しました事を付記いたします〉とあるそうです。

しかし、多くの研究書が指摘している事ですが、昭和39年7月に新潮社より刊行された吉屋信子著の小説『底の抜けた柄杓』にある「私の見なかった人 杉田久女」の中には、このことに関し次の様な記述があると。

その記述とは〈その頃、恩師虚子は愛娘星野立子の才能に望みを嘱して女流俳誌『玉藻』を発刊させた。『玉藻』の創刊号を久女に贈呈すると、その封も切らずに送り返されてきた。その『玉藻』の入った紙袋の表には久女の文字が落書きのように記してあった。「まだ貴女が俳誌を出すのは早いと思う。もうしばらく勉強を乞う」という様な意味が書きつけてあった。虚子門下の人々は子煩悩の先生の子女をうやまうことひとかたでなかった。だが久女はどうかしていた。もうだれをも見さかいなく、まるであばれん坊の振る舞いを人に示した〉と。 

吉屋信子のこの作品は小説としているものの、登場人物にも実名が使われ、俳句も久女の俳句が使われています。なので読んだ人は誰でも、これは久女のことだと思うのは当然です。

久女がしていない振る舞いをしたかのように書いた、これは明らかに吉屋信子の捏造でしょう。吉屋信子は『ホトトギス』と関係があった人で、そちら側から何か働きかけがあったのかもしれません。

吉屋信子は当時のベストセラー作家なので、久女をよく知らない一般人に彼女の書く久女像が信用されてしまいました。その上、著名な評論家で小説家の戸板康二までが〈現存する資料としては、この吉屋信子の聞き書きが最も信憑性が高い〉と、書いたことも、それに輪をかけることになったようです。この様なことが〈久女伝説〉などという、ゆがめられた人物像ができるきっかけの一つになったのだと思います。

加えて言うと、吉屋信子のいう久女が紙袋の表に書いたという「まだ貴女が俳誌を出すのは早いと思う。もうしばらく勉強を乞う。」という言葉ですが、これは虚子の周りの人々が、星野立子
や『玉藻』について思っていたけれど、口には出せない言葉だったのではないでしょうか。

吉屋信子もそれを察知して、久女の言葉として仮託したのではと、思います。久女にとっては非常に迷惑な話ですが...。まだ経験も浅い27歳での俳誌主宰は、たとえ虚子という後ろだてがあったとしても、早すぎるように感じますし、力不足であったことは誰の目にも明らかでしょう。

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