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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~俳句との出会い~ (4)

2015年06月09日 | 俳人杉田久女(考)
杉田久女年譜によると杉田宇内久女夫婦は大正3年(1914)に、それまで住んでいた京町四丁目の家から企救郡板櫃村字日明2535(現小倉北区日明一丁目)に転居しています。大正7年(1918)に堺町に転居するまでの約4年間をここで過ごしました。

この場所は現在は小倉の中心部に近い所ですが、当時は板櫃村だったんですね。久女がこの辺りの景色を描いた水彩画が『杉田久女遺墨』(この遺墨集に付いては後に触れたいと思います)に載っていますが、藁葺の屋根や河岸には小舟が見え、牧歌的なのどかな風景です。大正5年(1916)の9月久女26歳の時、ここで次女光子が生まれています。
<久女の水彩画>

杉田久女はその生涯に俳句だけではなく、小説、俳句評論、随筆などを書いていますが、その作品で一番長いのは、原稿用紙120~130枚の中編小説『河畔に棲みて』で大正8(1919)年の作です。これは大阪毎日新聞の懸賞小説に応募したもので、選外佳作になりましたが、その後『電気と文芸』という文芸雑誌に採用発表されました。

この『河畔に棲みて』は大正5年の秋から翌年のお正月までの約3か月間の出来事を、リアリズム調の筆使いで書いた生活記録というか私小説です。文中の房子が久女で良三が宇内であることは言うまでもありません。


『河畔に棲みて』によると、この年(大正5年)の秋、久女の次兄赤堀忠雄(俳号月蟾)が失業して、軍都工業都市として好景気の北九州で職探しをする為に、久女の家に寄宿することになりました。

小説によると、妹の家に転がり込んだ月蟾の荷物は、布団着替えらしいもの以外は俳人の短冊と雑誌の束だけでした。「そんなものを持ち歩いて」と久女は呆れましたが、俳書と俳誌『ホトトギス』を手離しかねて持って来ていたのです。

月蟾はすでに俳句を身に付けていました。『ホトトギス』を主宰する高浜虚子という人は、全国の俳句をする人々から生き神様のように敬われているとか、彼の書く写生文の素晴らしさなどを久女に説きました。月蟾は自身の俳句キャリアを誇示することで、失業中の自分の自尊心を保ったのかもしれませんね。

たった17字だけで表現する世界に類のない文学、俳句に久女が出会ったのはこの時でした。

久女は月蟾に勧められて夜なべ仕事の縫い物をしながら、作句をするようになりました。そして出来た句を次々に手帳に書き入れていきました。

『河畔に棲みて』は、この時代の杉田夫婦のたたずまいがよくわかる小説で、夫の宇内が釣りにばかり熱中して一枚も絵を描かないことへの不満や、家の周りの鄙びた美しい景色を見ても、夫はなぜ香気ある芸術作品を創り出す意欲が湧かないのかという、久女の歯がゆさなども書き込まれ、興味深い味わいになっています。

が、しかしこの小説のハイライトは失業の身で職探しに転がり込んできた月蟾に、俳句の手ほどきをされるという、久女俳句の出発点が描かれていることです。

月蟾は年を越してから職が見つかったので久女の家を出たようですが、久女は月蟾の置き土産である俳句にますます打ち込むようになりました。                                   

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