前回モンローが福岡市滞在時に足を運んだフレンチレストランのことを書きましたので、モンローとディマジオの福岡市での足取りについてネットで調べてみました。こんなことに興味を持つなんて暇を持て余している婆さんだと思われそう~(^-^)
1954(昭和29)年1月にマリリン・モンローと元大リーグのスーパースター、ジョー・ディマジオは、サンフランシスコ で結婚しました。
翌2月に読売ジャイアンツの招きもあり、二人は新婚旅行を兼ねて日本にやって来ました。約3週間の日本滞在のうち、福岡市滞在は3日間と短いものでしたが、一地方都市にとってこれは衝撃的な出来事だったらしく、この時のことを書いたものを六十数年経った今でも時々目にします。
二人は2月10日夕方板付空港に到着しました。その時のこんな写真がネット上にありました。いずれもイタヅケエアベース写真班によって撮影されたものだそうです。二人とも非常にリラックスして楽しげで、モンローは黒いベレ-帽をかぶっていますネ。
空港のVIPルームでしょうか、脚を組んでコーヒーカップをもつ演技ではないモンローの表情がいいですね~。
その後、二人は宿泊先の福岡国際ホテルに向いました。このホテルのあった場所は、今は下の写真のアクア博多という新しいビルになっていて、赤いマルで囲んだ辺りだったようです。明治通りの西大橋を渡ってすぐの那珂川沿いです。なるほど二人が食事をした「花の木」の前身「ロイヤル中洲店」があった場所は、ここから歩いて2、3分の所です。
このホテルの周りに大勢のファンがおしかけたため、モンローはカーネーションを投げるというファンサービスを行ったそうで、こんな写真が残っています。
<カーネーションを投げるモンロー>
二人の日本への訪問は新婚旅行とはいうものの、実際はジョー・ディマジオの日本のプロ野球選手への技術指導のためという目的がほとんどで、二人は福岡市においても観光地などは一切訪れていません。
ディマジオは福岡滞在中は香椎球場に行っており、モンローは西戸崎にあった米軍キャンプへ慰問に訪れています。この時モンローは一人で海ノ中道をドライブしたそうです。すれ違いが多かったんですね。
当時二人はハリウッドの人気女優と全米で最も人気の野球選手でしたが、来日中はどこでもモンローの方が圧倒的に注目を浴び、このこともディマジオは面白くなかったようです。
そんな時、モンローに朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込み、彼女はディマジオの反対を押し切って、彼を日本に残したまま韓国に行ったといわれています。モンローにすれば、どうせ野球の指導で一緒に過ごせないならば、同じことと考えたのかもしれませんネ。4日間の韓国滞在から日本に戻り、二人はそろって2月24日に日本をたち帰国しました。
その後、結局2人は1955年9月に離婚、それは入籍してからたった9ヶ月後のことでした。
7年後の1962年に36歳でモンローは亡くなりますが、死の3日後に行われた葬儀はディマジオが取り仕切り、参列者は生前にモンローの世話などをしていたごく一部の関係者など約30名の小規模なもので、マスコミは一切シャットアウトされ、ハリウッドの映画関係者には1名も呼出しはなかった様です。
ディマジオはモンローの死後再婚することなく、ずっと週3回、彼女の墓に赤いバラを贈り続けました。1999年に85歳で亡くなる数日前に友人に語った最後の言葉は「死んだら、マリリンのところへ行ける」だったそうです。
<ロスアンゼルスにあるモンローのお墓>
(写真はすべてネットよりお借りしました)
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