昭和11(1936)年『ホトトギス』10月号に自分の除名社告を見た久女は、おそらく我が目を疑い言葉を失ったでしょう。この時、久女46歳でした。
結果としてみると、この除名は久女の俳人としての生命だけではなく、久女の実人生までを崩壊させ、その生涯を完全に閉ざすことにつながりました。が虚子は久女は除名後は他派へ移ると予想し、彼女にそれ程の打撃を与えるとは考えなかったのかもしれません。
除名から少し経ち落ち着きを取り戻した頃、久女は除名は自分の去就について、虚子に試されているのだと考え、いつの日か虚子の勘気が解けて、再び同人に返り咲く日が来ることを信じていたようで、最後まで他の結社に移ることはしませんでした。
除名後の、昭和11年12月号の『俳句研究』にこんな作品を発表しています。
ユダともならずの前書きがあり
「 春やむかし むらさきあせぬ 袷見よ 」
前書きのユダという言葉に、除名されても『ホトトギス』を裏切る者ではないとの思いがこめられているようです。
又、除名から1年後に『俳句研究』10月号に発表した「青田風十句」の中に、下の様な大胆な4句があります。
「 立てとおす 男嫌ひの 単帯 」
「 張りとほす 女の意地や 藍浴衣 」
「 押しとほす 俳句嫌ひの 青田風 」
「 虚子ぎらひ かな女嫌ひの ひとえ帯 」
この時期の久女の気持ちを表す句と言えるでしょうが、その様な背景を離れても4句ともキッパリとした季語の使い方が小気味よく、切れの良い魅力的な句だと感じます。
「男嫌い」、「女の意地」、「俳句嫌い」、「虚子嫌い」と言い放つ久女の心には、当然自身の句集出版、除名へのわだかまり、怒りが渦巻いていたと思われます。
久女年譜によると、昭和13(1938)年に長女昌子さんの結婚を祝う句が『ホトトギス』雑詠に3年ぶりに乗りました。
「 母として 新居訪うなり 菊の晴 」
「 新婚の 昌子美はし さんま焼く 」
幸せな結婚をした娘を見守る母の喜びにあふれた句ですね。『ホトトギス』除名の痛手で悶々と暮らしていたでしょうが、母親としての務めはちゃんと果たしていたのですね。