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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

暑さがおさまると連日の外出

2010-09-16 23:19:38 | Weblog
火曜日は午後6時から行きつけの韓国料理店で、朝鮮語クラス今年度前期終了の打ち上げパーティがあった。話には聞いていたが夜のメニューは定食主体のランチメニューとは異なりなかなか多彩で、あらためて韓国料理の奥行きの深さを実感した。二十人近いクラスで男性はたった二人、貴重な存在なのだが何となく冴えない。男性二人とも中ジョッキ一杯で真っ赤になっているのに、女性軍はジョッキはお代わりするは、密かに持ち込んだ焼酎を、怪しまれないようにとか言って代わる代わるが注文して持ってこさせた氷水で割ってはグイグイとやっている。前の女性二人を観察していると、2時間半の間にジョッキは三杯だけれど、水割りからは手を離さず絶えず流し込んでいる。二人だけウーロン茶の女性がいたがとにかく女性全員の顔は真っ白、平然としていた。

その後、帰るつもりが女性軍に拉致されてカラオケに行った。ここでも飲み放題のセットメニューで、さっそく女性軍はアルコール飲料を手にする。さすが皆さん、韓国語の歌を沢山ご存じでそして上手い。これにも敬服。画面に流れるハングルが読み上げるのに格好の練習台になる。歌の速さだとハングルを見ただけでちゃんと声を出して読み上げられたので嬉しくなった。二年間の成果である。ところが家の鍵を置いたまま出てきたことに気がついた。閉め出されては困るのでそれを口実に私だけ抜け出し、午前様にならずに家に辿り着いた。

水曜日は隣の区の区民ホールで上映された市川崑監督「その木戸を通って」を鑑賞した。山本周五郎原作以外のなんの予備知識もなしに出かけたが、不思議な味のある作品で面白かった。中井貴一が若いなとか、あれっ、フランキー堺が、と思ったけれど、だからこれが昔撮られた映画だとまでは頭が働かなかった。帰ってネットで調べてみると、このような2008年に書かれた解説があった。《本年(08年)2月に92歳で他界した巨匠、市川崑監督。70数本におよぶその作品歴の中で、生涯ただ一本、未公開となっていた『その木戸を通って』が、ついに公開される。わが国初の本格的長編ハイビジョンドラマとして1993年8月に完成しながら、その後BSで一度だけ流れた以外、人の目にほとんど触れることなく眠っていた本作品は、まさに“幻の逸品”。リリカルな正統派ドラマとしての気品と、市川監督ならではの映像美をあわせ持った、まさに宝石のような珠玉作である》。儲けものをした。

木曜日、といえば今日のこと、ヴォイストレーニングの日である。「魔笛」のパパゲーノのアリア、難しい。2/4と6/8の拍子が混ざり合って、その上ところによって8分音符の二つ目、三つ目、六つ目で入らされるのでオロオロする。映画「アマデウス」で見たいたずら好きのモーツアルトを思い出して、憎たらしくなる。一方、家では大騒ぎをしていたらしい。昨夜の間降っていた雨が朝には止み、出窓のサイドウインドウを開けると心地よい風が入ってきた。これで雨は終わりかなと思い、窓を開けたまま午後ヴォイストレーニングに出かけた。ところがレッスンの最中に短い時間であったが激しい雨が降ったらしい。妻がもしやと思って覗きに来たときはすでに遅く、出窓の台とその手前のデスクに置いていたものがずぶ濡れになっていた。一弦琴だけは片付けていたのでヤレヤレであったが、ものの見事にゲリラ豪雨にやられてしまった。

明日の金曜日は大倉山の文化ホールで開かれる「シルバー合唱コンクール」を聴きに出かけるし、土曜日は大阪まで、ある用事がてらぶらぶら歩きに出かける予定である。暑さがおさまるとさっそく連日の外出となった。

嬉しい秋風と秋の空 そして亡くなったパンダの話

2010-09-14 10:26:33 | Weblog
朝、窓を開けると涼しい風が入ってくるし、空は抜けるように青い。部屋の温度計は25度。9月半ばにしてようやく窓を開けることができた。まさに生き返った思いである。まだ日中の最高温度は30度を超えるとの予報が出ているが、それでも待ちに待った秋の到来である。「ああ、嬉しい」と朝からなんべんも一人でつぶやいている。つぶやくたびに嬉しさが増す。

暑い盛りに外に出るのは気が乗らなかった。最寄りの地下鉄の駅から緩い坂を10分ほど登って帰りつくだけで汗でびっしょりになる。それでも家に帰ればすぐにシャワーで洗い流すことができるが、外出先ではそうはいかない。歩いているだけで汗が出て、そして冷房の効いた建物に入ったり、電車に乗り込んだりするとこんどは汗が蒸発して体温を急激に奪っていく。それを防ぐために人目を避けて厚手のタオルをアンダーシャツの首元から差し込んで身体を拭い、濡れたシャツの水分をできるだけ吸収させる。こんなことをしているとじじいくさく見られそうで、それが嫌だから電光石火の早業で片付ける。こうした気苦労からもようやく解放されそうで、だから嬉しくてたまらない。さあ、歩き回るぞ、とひとりでに声が出てくる。

そうだ、あのパンダの亡くなった王子動物園にお弔いにでも出かけようか、と思っているところに次のようなニュースが目に止まった。

パンダ「コウコウ」の急死で日本側が払う賠償金は4200万円―中国メディア

010年9月13日、神戸市立王子動物園で飼育されていたオスのジャイアントパンダ「興興(コウコウ、中国名:龍龍)」の死により、中国側に支払う賠償金は50万ドル(約4200万円)に上るという。東方網が伝えた。

記事によれば、来日して8年になる14歳のコウコウが死んだ件について、中国の専門家は発情期ではない時期に麻酔をして無理やり精子を採取しようとしたことが原因との見方を示している。中国国家林業局は近く専門の調査チームを派遣するとして、日本側にコウコウの遺体をそのまま保管するよう求めている。

神戸市によると、9日、コウコウに人工授精のための精子を採取しようと麻酔をかけ、麻酔から覚める途中で心肺停止となった。コウコウを貸し出した四川臥龍パンダ研究センターの獣(ショウ)医師は「精子を採取するという事前連絡は受けていない。死因は麻酔と関係あるのでは」と話している。パンダの発情期は年に1回3~5月で、それ以外の時期は精子が少ないか全く作られないため、採取は不可能だという。

また、中国野生動物保護協会によると、パンダ貸し出しの際の取り決めにより、死亡時には日本側が50万ドル(約4200万円)の賠償金を払うことになっている。(翻訳・編集/NN)
(RecordChina 2010-09-13 16:57:30 配信)

《日本側が払う賠償金は4200万円》に驚いたのであるが、調べてみると朝日新聞がすでに報道していた。私の目を素通りしていたようだ。ここでも日本と中国の見解が微妙にずれている。

 同園によると、14歳のメスのタンタン(旦旦)に発情の兆候が見られたため、この日午前9時すぎからコウコウに麻酔をかけて精子採取を試みたが失敗。午前11時半ごろ、呼吸が浅くなり、心臓マッサージなどをしたが正午に死を確認したという。死と麻酔の因果関係は不明で、中国から専門家が到着するのを待って病理解剖する。(中略)

 2頭は今年7月に借受期間を5年間延長したばかりだった。人為的な原因で死んだ場合は賠償金50万米ドル(約4200万円)の支払いを求められる可能性もあるという。パンダプロジェクトチームのリーダーとして2頭を見守り、2世を待ち望んできた副園長の奥乃弘一郎さん(58)は「気難しいタンタンを包み込むような、優しい性格のパンダだった。残念としか言いようがない」と肩を落とした。同園は10日に献花台を設けた。
(asahi.com 2010年9月10日11時31分)

朝日の報道によると《人為的な原因で死んだ場合は賠償金50万米ドル(約4200万円)の支払いを求められる可能性もある》とあるから、果たしてこの場合が人為的な原因であったかどうかが問題になるのだろうが、それにしてもそこまでして「精子提供」を強要されたパンダが哀れでならない。明らかに人間のやり過ぎである。

ついでに気になることと言えばイチロー選手、10年連続200本安打の記録が達成出来るかどうか、そして白鵬が連勝記録をどこまで伸ばすことができるかどうか、固唾をのんで見守っている。そうそう、それに民主党代表が今日決まる。



小沢さんがヤンキーゴーホームを叫ぶ?

2010-09-13 13:06:34 | Weblog
《小沢氏は一つの切り札 代表選、むのたけじ氏に聞く》という12日付けasahi.comの見出しを見て、「むのたけじ氏」という名前に何か見覚えがあるような気がした。その記事を読んで、そうだ、あの人だと思い出した。2年前に出版されたこの岩波新書を私は読んでいたのである。


聞き手の黒岩比佐子さんは、むのたけじさんを《九三歳の現在(2008年)もジャーナリスト・評論家として活動している。文字どおり、二十世紀の戦前・戦中・戦後を生き抜いてきた”時代の証言者”だといえるだろう》と紹介している。また表紙裏には《敗戦の日に戦争責任をとる形で朝日新聞社を去った著者は、いま、その選択を悔いる。残って「本当の戦争」を伝え直すべきだった、と。》とも記されている。では「本当の戦争」とはどのようなものなのか。

 いつも戦争の話になると、戦争を体験した父親が、自分の娘や息子にそのことを言わない、だから困る、ということになる。(中略)

 少なくとも、戦争のことを一番よく知っているのは、実際に戦場で戦った人たちです。ところが、戦場へ行けばわかりますが、行ってしまえばもう「狂い」ですよ。相手を先に殺さなければこちらが殺される、という恐怖感。これが、朝昼晩とずっと消えることがない。(中略)

 本当にいやなことだけれども、戦場にいる男にとっては、セックスだけが「生きている」という実感になる。しかも、ものを奪う、火をつける、盗む、だます、強姦する・・・・・ということが、戦場における特権として、これまでずっと黙認されてきました。(33-34ページ)

 あえて言いますが、ほとんどの男は、とても自分の家族、自分の女房や子供たちに話せないようなことを、戦場でやっているんですよ。中国戦線では兵士に女性を強姦することを許し、南京では虐殺もした。その苦い経験に懲りて、日本軍は太平洋戦争が始まると、そういうことはやるな、と逆に戒めた。軍紀の粛正を強調したんです。(35ページ)

など重い話が続く。慰安所でどういう光景が見られるか・・・・・、と生々しい情景が具に語られている。しかし語られているのはもちろん従軍体験だけではない。主題はあくまでも表紙のタイトル「戦争絶滅へ、人間復活へ」である。そしてこのむのさんに私が大いに共感を覚えたところがある。「男天下」から「女中心」の社会へを提言しているからである。

 人間は約一万年前から農耕生活を始めましたが、身体の構造は昔から男のほうが強くできているので、それが力仕事に生かされていきました。戦争というものが始まると、さらにそれが生かされて、男が支配者として権力を握るようになった。
 それからはずっと男中心の社会を続けてきたといえるけれども、いま世界のどこを眺めても活路は見えないでしょう? だから、もう一度ここで母系社会に戻って、母が中心になっていくべきですよ。女が主導する社会に変わっていかなければだめだ。

このむのさんにたとえば蓮舫さんとか女性候補を挙げてほしかったが、明日に迫った民主党代表選については次のように語っている。

 私個人も感じから言うと、好きなタイプではない。だけど、今の政治状況では、小沢は一つの切り札だと思う。好き嫌いを置いてやらせてみたい。

 彼の言っている、沖縄の普天間基地問題は、アメリカと対等の関係を結び、日米軍事協定を見直すということ。そうしないとアメリカの言いなりで、戦争の可能性を高める側にいるしかない。今度戦争が始まれば核戦争。雇用だ年金だなんてのんきなことを言ってられない。それを防ぐ側にならないといけない。

 そのためにしっかりと「アメリカの世界ナンバー1主義はダメだ。対等に話し合いましょう。日本には、基地を受け入れるという自治体が一つもない」と言って交渉できるのは、小沢だけでしょう。


 彼が頑張る背景には、南部人ということがあると思う。今は相当薄れてきたけど、彼くらいの年齢の東北人だと、すぐ出てくる言葉は「白河以北一山百文」。東北の人間がいくら束になっても百文の価値しかないと言われた。

 口に出さないけど、そう扱ってきた中央政府・官僚に対して、実力を見せてやるという気が、根っこにあると思うな。地元の人たちが「岩手から6人目の総理を」というスローガンを掲げていたのも、そういうことでしょ。
(asahi.com 2010年9月12日)

もしむのさんの見方が的を射ているとすれば、小沢さんで普天間基地問題が新しい局面を迎えることになるのかもしれないが、そういう期待をいだいてよいものやらどうやら、心が揺れ動く。鳩山首相 ついにヤンキーゴーホームを叫ぶとはと期待して、そうはならなかったことの後遺症が重いのである。

清虚洞一絃琴宗家四代目の生演奏を鞍馬寺にて聴く

2010-09-12 20:23:54 | 一弦琴
昨日の鞍馬山は暑かった。いや、行くまでが暑かった。ケーブルを降り、鞍馬寺金堂前の四明閣にたどり着くのに坂道と階段を登っている間に、頭から水を浴びたように汗をびっしょりかいてしまった。その汗をどう処理したかはさておいて、そこまでして何故わざわざ鞍馬寺までやって来たかというと、「義経祭奉賛の催し 清虚洞一絃琴 奉納演奏」なる催しがあって、そこで演奏される清虚洞一絃琴宗家四代目峯岸一水さんの一弦琴を聴くためなのである。

清虚洞一絃琴についてはホームページがあるのでそちらをご覧いただければよいが、私も細い糸ながら清虚洞一絃琴につながりがある。というのも私が以前師事していた師匠が清虚洞一絃琴宗家三代目から名を頂いているし、また私自身、国立国会図書館にてPhotoshopとIllustratorで「清虚洞一絃琴譜」のお手入れなどに記したことであるが、今も流祖・徳弘太著「清虚洞一絃琴譜」を教本として日々一弦琴を奏でているからである。その宗家の演奏がわざわざ東京まで行かずとも鞍馬寺で聴けるのだから、炎天下をものともせずにやって来たのである。

宗家の演奏は斉藤一蓉 詞・曲の「偲義経(しのぶよしつね)」と、ご自身の曾祖父、徳弘太 詞・曲「泊仙操」の春・夏の部であった。始めて聴いた「偲義経」は鞍馬寺の義経祭奉賛のために作られたのであろうか、聴いていると軍記物の世界に引きずり込まれる思いがした。めり張りのあるダイナミックな演奏がとても流麗で、一弦琴の新しいジャンルの出現を感じた。「泊仙操」は全部を演奏すると20分ほどかかる大曲で、私も一応師匠に教えていただき一弦琴「泊仙操」からで少し触れたことがあるが、今回は四季のうち春・夏の部が演奏された。

演奏が行われた屋根付き舞台は屋外にあって、前・左右の三方は露天に広がり、前の広場に張られた天幕下に並べられたベンチが観客席であった。このような開放的な場所で演奏するのに拡声装置を使う様子もなかったので大丈夫かな、と思ったが、いざ演奏が始まるとこの野趣味がなかなかよかった。観客は数十人いたが、周りは参詣客が自由に動き回っているので話し声に足音が結構耳に入る。しかし琴の音はよく通るし峯岸さんの歌声もちゃんと聞こえてくる。CDなどで下手な音響加工をされると人工的になって、特に一弦琴の演奏では本来の持ち味が失われてしまうが、拡声装置も使わない生の演奏を直接聴けたのがとてもよかった。

峯岸さんの歌声は素直で落ち着きがあり、いわゆる邦楽らしさから自由なのがいい。長唄とか十三弦などで喉を鍛えている方が一弦琴に転じて歌うとそれはそれで趣があってよいが、「ちょっと簡単にここまではこれないよ」と突き放された気になってなんだかよそよそしさを感じてしまう。峰岸さんの歌にはそういう「邦楽臭」を感じさせず、それでいて自分の感情やイメージをちゃんと表現出来る声が出来上がっているので、あのオープン・エアをものともしないのがとても印象的だった。お腹が声をよく支えているせいだろう。歌に耳を傾けていると、「あなたでも気持ちよく歌えるようになりますよ」というもう一つのメッセージも伝わって来た。

本音を申すと、私はお稽古ごとにのめり込んだご婦人方が無闇にあがめ奉る?家元とか宗家とかいう存在にとくに関心はない。しかしプロとしての家元を周りが育て盛り立てていくための制度としてみると、それなりに納得できるところもある。一方、プロである家元・宗家は、たとえば一弦琴を奏でることを喜びとするアマを育てるのが責務であり、その意味ではプロトアマの間には、囲碁・将棋の世界で明らかなように、判然とした力の違いがあってしかるべきである。一弦琴のアマを自認する私にとって、何かを学び取ることの出来るプロの存在は精進に欠かすことの出来ないものだと思う。その意味で清虚洞一絃琴宗家四代目峯岸一水さんの演奏に触れることができたのは大きな収穫で、同時に周りの方々の支えを多とする思いに駆られた。

演奏に参詣者が撞くのだろうか鐘の音がかぶさってくるのもこういう場ならではの風情で、ほぼ80分に及ぶ一弦琴の演奏と話を心から楽しんでいる間、心地よい涼風がすっかり汗を吹き払い去っていた。

おことわり
この文章で「一弦琴」と「一絃琴」を混用しているが、私は従来から「一弦琴」を用いているのでそのまま使っている。しかし「一絃琴」が使われている場合には「一弦琴」に書き直すことをせずそのまま用いた。考証の材料になりそうである。現時点でGoogle検索を行うと「一弦琴」では約49000件が、「一絃琴」では約18000件が引っかかってきた。

厚労省・村木元局長の無罪判決に地検は控訴を断念すべきである

2010-09-10 15:43:42 | 社会・政治
大方の予想通り、郵便割引制度をめぐる偽の証明書発行事件で虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われ、懲役1年6カ月を求刑されていた厚生労働省の元雇用均等・児童家庭局長村木厚子さんの無罪が大阪地裁で言い渡された。

この件についてまだ「藪の中」の郵便不正事件で私は《(村木前局長の)全面否認が真実であってほしいという気がある》と願望を述べ、また郵便不正事件の行方 村木厚子元雇用均等・児童家庭局長が無罪であれかしで村木さんの無罪を願望し、村木厚子さんの矜恃 井上ひさしさんの気概 橋下徹大阪府知事の明快では次のように述べ、村木さんの無罪を確信していたのである。心から村木さんにおめでとうと申し上げたい。

次は朝日朝刊の記事であるが『「公務員30年の信用」譲らず』との村木さんの主張にわが意を得た思いをした。全国津津浦浦の公務員の方々に国民が寄せる信頼と期待の大きさを重く受け止めて頂きたいとあらためて呼びかけたい。それにしても同じ公務員といいながら、自らの証人が次から次へとその証言を覆していくようなずさんな取り調べを恥とも思わない検察官のちゃらんぽらんな仕事ぶりには怒すら覚える。真相が一刻も早く明らかにされることを願いたい。

今回の無罪判決により、ここで私が強調したような不実な検察官が断罪されたともいえる。せめて控訴を断念するという行動で、まずは反省と謝罪の意を尽くすべきである。

それにしても漫画的な虚構をでっち上げた検察の仕事ぶりの実態を知りたいものである。法務省に「検察審査会」ならぬ「検察官適格審査会」が存在して、法務大臣の請求で各検察官を随時審査するときく。審査結果によっては検察官が免職されることもあるらしい。この「検察官適格審査会」をなんとか活用出来ないものだろうか。千葉景子法務大臣のもうひとつの置き土産を期待したいものである。




臓器提供拒否の意思表示に書面は必ずしも要らない

2010-09-09 13:35:00 | Weblog
私の知るところ、読売新聞だけが次のような報道を行った。

家族承諾での移植後、臓器提供「拒否」が急増

 脳死による臓器提供が家族の承諾だけで初めて実施された8月、日本臓器移植ネットワークのホームページを通じて臓器提供を拒否する意思を登録した人が急増したことが6日、わかった。

 現在の臓器移植法では、本人が生前に拒否の意思表示をしていなければ、家族の承諾だけで臓器提供ができる。ネットワークへの意思表示は、臓器を、〈1〉脳死と心停止のいずれの場合でも提供〈2〉心停止の場合のみ提供〈3〉提供しない――の3種類があり、これまで〈3〉は2%に過ぎなかった。ところが、8月9日に家族承諾による脳死判定がおこなわれたのを機に登録者が相次ぎ、8月の登録者では〈3〉が10%を占めた。〈1〉は86%、〈2〉は4%だった。
(2010年9月7日16時14分 読売新聞)

日本臓器移植ネットワークに臓器提供意思登録サイトがあって、そこで臓器提供意思を登録出来る。しかし日本臓器移植ネットワークのホームページに、2010年の状況 8月末日現在として「臓器提供意思登録者数 ・・・・ 71,182人」のデータは表示されているが、その内訳、すなわち上記新聞記事にある(1)、(2)、(3)の内訳は明示されていない。ちなみに(2)と(3)の場合は脳死判定は行われない。情報をわざと隠しているとは思わないが、透明でないことは明らかである。その中身をこの読売新聞の記事が報じたことを私は大いに評価する。

ところで「提供しない」の意思表示を臓器提供意思登録サイトに登録する以外に、どのようにしてできるのだろうか。書面による意思表示のみが有効なのかどうなのかがまず問題になる。というのも「臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案」を提出した中山太郎氏による次のような説明があるからである。この法律案の関連部分は次の通りである。

 臓器の移植に関する法律(平成九年法律第百四号)の一部を次のように改正する。

 第六条第一項を次のように改める。

  医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。

 一 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないとき。

 二 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき。

そしてこれに関連する中山議員の第166回国会 厚生労働委員会 第32号(平成19年6月20日(水曜日))における説明は次の通りである。

 次に、本法律案の概要につきまして御説明申し上げます。

 第一に、脳死下で臓器を提供できる要件について、本人が生前に書面によって臓器の提供意思を表示している場合に加え、本人が書面によって臓器の提供を拒否する意思を表示している以外の場合で、遺族が書面により承諾している場合とすることとしております。

この強調部分をみると、書面による意思表示が無い限り臓器提供拒否は認められないことになる。そして注目すべきなのは次ぎに引用する改正臓器移植法、『臓器の移植に関する法律』第六条第三項の(二)なのである。

第六条  医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
 一  死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないとき。
 二  死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき。
2  前項に規定する「脳死した者の身体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された者の身体をいう。
3  臓器の摘出に係る前項の判定は、次の各号のいずれかに該当する場合に限り、行うことができる。
 一  当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないとき。
 二  当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により承諾しているとき。

ここで青色で強調した部分と赤色で強調した部分は、日本臓器移植ネットワークが出している「臓器移植提供施設の手順書」に記載されている次の説明の②A,②Bにそれぞれに対応する。

2. 臓器摘出に係る脳死判定要件の改正
  移植に係る脳死判定を行うことができる場合を次の①又は②のいずれかの場合とする。
 ①本人が
  A 書面により臓器提供の意思表示をし、かつ、
  B 脳死判定の拒否の意思表示をしていない場合
  であって、家族が脳死判定を拒まないとき又は家族がいないとき。
 ②本人について
  A 臓器提供の意思が不明であり、かつ、
  B 脳死判定の拒否の意思表示をしていない場合
  であって、家族が脳死判定を行うことを書面により承諾するとき

ここで注目すべきなのは、②Bに(①Bでもそうなのであるが)「書面」なる文言が無いことである。これだといかなる手段であれ提供拒否の意思を表していたら、それが有効になり脳死判定が行われないことになる。それかあらぬか、「改正移植法施行から1カ月余り」と題した朝日新聞の記事に、次のような部分があった。

 19日の厚生労働省での記者会見で、移植ネットは本人による拒否の意思表示がなかったことを三つの方法で確認したと説明した。(1)意思表示カードや健康保険証などの文書に拒否の意思がなかった(2)移植ネットのウェブサイトに拒否の意思が登録されていない(3)家族に拒否の意思を示していなかった、というものだ。
 厚労省や移植ネットは、拒んでいた人から臓器を摘出してしまうことを防ぐため、施行前から、意思表示カードと同様に運転免許証などに拒否の記載欄を設けることにした。書面に残された本人意思が必須でなくなったのにもかかわらず、新たな意思表示カードも用意し、拒否の人も含め多くの人に意思を残しておいてもらおうとPRした。家族で話し合い、提供であれ、拒否であれ、意思を形に残すことが大事と呼びかける。
(2010年8月20日付 朝日新聞東京本社朝刊)

この強調部分の意味するところは明らかで、臓器提供拒否の場合に書面に残された本人意思が必須でなくなったのである。中山太郎氏らの提出した法律案が第六条第三項に関する限りそのまま改正案として施行されることになったので、どのようにして提案者の拒否意思の書面による表示という説明と異なるような結果になったのかは私には分からない。もしかしてどこかで私の読み違いがあるのかも知れないが、臓器移植法改正が必要? 自分の身体は誰のものなのかで述べたように、中山氏ら提出の「臓器移植法改正A案」に反対であった私としては、臓器提供拒否の場合に書面に残された本人意思が必須でなくなったことは結構なことだと思う。しかし余計な手間ではあるが口頭以外の形で拒否の意思を残しておく方が要らざる混乱を招かないためにも望ましいと思う。家族に「自分の身体は自分のもの」という当人の声ならぬ声が届かなかった場合の備えになることは確実であろう。

ところで家族による承諾のみで脳死臓器移植の7例目が数日前に行われたが、9月7日の朝日朝刊の扱いがたったこれだけになってしまった。




小沢さんの選挙上手とはこういうことなのか

2010-09-07 20:35:22 | Weblog
民主党に冷ややかな産経ニュースの記事である。

【民主党代表選】わき起こる「小沢コール」に冷ややかな視線も

 14日投開票の民主党代表選を前に5日、大阪市のJR大阪駅前で行われた菅直人首相と小沢一郎前幹事長の街頭演説会。猛暑にもかかわらず、駅前は約3千人(主催者発表)の聴衆で埋め尽くされた。2人はともに経済政策や官僚主導からの脱却を訴え、汗をぬぐいながら耳を傾けた聴衆からは賛否さまざまな声が上がった。盛んにわき起こる「小沢コール」に冷ややかな視線を送る人もいた。

 午後3時の開始前には会場から離れた歩道橋の上まで聴衆があふれた。異様な熱気の中、選挙カーの上にスーツ姿の小沢氏と白いワイシャツ姿の菅氏が登場すると、選挙カー前で小沢コールがわき起こった。
(2010.9.5 20:25)

この盛んにわき起こった「小沢コール」は小沢陣営の組織的動員の成果のようである。またこんなことが報じられている。毎日jpの記事である。

民主代表選:投票用紙取りまとめ依頼 小沢派の高松議員

 民主党代表選を巡り、小沢一郎前幹事長を支持する高松和夫衆院議員(比例東北ブロック)が後援会に対し、党員・サポーターから投票用紙を回収し、自身の事務所に集めるよう依頼していることが4日、分かった。秋田県北部の男性サポーターが毎日新聞の取材に、白紙のまま提供を求められて断ったと証言。高松議員は「回収を秘書が指示した。白紙とは言っていない」と依頼を認めた。民主党中央代表選挙管理委員会規程に違反する可能性がある。

 男性サポーターによると、小沢氏が正式に出馬を表明した8月31日、高松議員の後援会員の元地方議員から「うちの先生は小沢(支持)だ。秘書が回収に来るから、投票用紙を白紙のまま自宅に持ってきてほしい。他の支持者は応じている」と電話があり、男性の妻と別のサポーターと合わせて3枚の投票用紙の回収を求められたという。男性は「手法に疑問を感じる。正々堂々と選挙をやってほしい」と語る。

 高松議員の政党支部が集めた党員・サポーターは約500人。秘書は「数枚の投票用紙が事務所に届いた。まだ投函(とうかん)していない」と、投票用紙を取りまとめていることを認めた。中央選管規程では不正投票を防ぐため有権者が直接、投票用紙を郵送すると定めており、「何人も複数の投票券をまとめて送付してはならず、中央選管はこれらの投票券を受け付けない」と明記。同党秋田県地方選管は4日夜、「選挙違反が疑われる行為」として、中央選管に届け出た。
(2010年9月5日 2時30分)

もっとも否定のニュースもある。

民主・高松氏「白紙提出」依頼を否定、党選管も「証拠ない」と説明

 民主党の中央代表選挙管理委員会は6日、代表選への投票権を持つ一部サポーターに白紙の投票用紙提出を依頼したとされる問題で、小沢一郎元幹事長を支持する高松和夫衆院議員(比例東北ブロック)から事情を聴いた。高松氏は「事実無根。でっち上げだ」と否定した。

 別個に事情を聴いた党秋田県代表選管の佐藤哲治委員長も「証拠はない」と説明した。中央選管はこの日は違反行為は確認できなかったとし、調査を継続する。
(zakzak 2010.09.07)

さらにはこういう問題もある。

【民主党代表選】外国人に国政参政権付与と同じ 実数さえ把握せず

 民主党代表選は事実上、次期首相を選ぶ選挙だが、日本国民の大多数が参加しない中で、党員・サポーターになった在日外国人は投票できる。永住外国人の参政権付与問題では、民主党の付与推進派ですら地方選挙権に限るとの主張がほとんどだが、代表選では在日外国人が「国政参政権」を事実上持てる。にもかかわらず民主党は外国人がどれくらい含まれるか把握すらしておらず実態は明らかでない。(原川貴郎)(中略)

 党員・サポーターは約34万人で、全体の1224ポイント中300ポイントと約4分の1の重みを持つが、党事務局は「外国人を区別して集計していない」としている。

 民主党は党員・サポーターを「党の基本理念・政策に賛同する18歳以上の個人(在外邦人および在日の外国人を含む)」と規定している。年間、党員は6千円、サポーターは2千円を納めれば投票資格を持てる。申し込み用紙に国籍欄はない。本人確認も十分行われているとは言えない。
(産経ニュース 2010.9.6 00:16)

なんだか国連監視下、どこかの発展途上国で行われている国政選挙を思い出させる。いや、それよりも程度が低いか。あゝやんなっちゃた、おどろいた。

脳死下臓器提供を承諾した家族は100例中1例?

2010-09-05 23:06:45 | Weblog
「改正臓器移植法では脳死者本人が生存中に書面で臓器提供の意思を明らかにはしていなかった場合でも、家族が承諾することで脳死下臓器提供の道が開かれることになり、その6例目が9月4日に公表された」、と書き始めたが、この文章が正しいのかどうか、私にはちょっと自信がない。そこで検討を加えてみた。

脳死者と書くかぎり文字どおり死者であるが、それがふつうの死者ではない。『臓器の移植に関する法律』の次のような定めに従い二人以上の医師の判断が必要とされるからである。

臓器の摘出に係る第二項の判定は、これを的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師(当該判定がなされた場合に当該脳死した者の身体から臓器を摘出し、又は当該臓器を使用した移植術を行うこととなる医師を除く。)の一般に認められている医学的知見に基づき厚生労働省令で定めるところにより行う判断の一致によって、行われるものとする。 (第六条第四項)

このような手続きを経て判定が有効になった瞬間に脳死者が生まれるが、この脳死者の家族がもし脳死下臓器提供に承諾を与えなかったら、この同じ人が依然として人として生き続けることになる。言い方を変えると、脳死状態と医学的に判定されうる人が臓器提供をするのであれば死者になり、しないのであれば生者なのである。だから「脳死状態と医学的に判定されうる人」を総括的に一つの言葉で表現しようとすると、脳死者は適当ではないので別の言葉が必要になるが、私が探した限りこのような言葉は見つかっていない。そこで便宜上括弧付きの「脳死者」で代用することとする。だから上の書き出しの文章は対象が限定的ではあるが間違いではなさそうである。

社会的に今回話題になっている全7例(前回ブログを書いたときから1例増えたので)の脳死者は、本人の意思が明確な1例を除きすべて家族が脳死判定を行うことを承諾したからこそ脳死者となったのである。そう思ってみると改正臓器移植法は実に巧妙な世論誘導の道具になっているのでは?で、「この一連のニュースを追って私が不思議に思ったのは、報じられるこの④を除く5例のすべてにおいて、例外無しに家族が脳死下臓器提供を承諾していることであった」と述べたことは、舌足らずであったと言わざるをえない。脳死下臓器提供が家族の承諾があって始めて可能になるのであるから、例外無しに家族が承諾したというのはいわば自明の理でもあったのである。私が言いたかったのは「脳死者」のうち、家族が臓器提供を承諾した場合のみの発表しかないが、家族が拒否した場合も同じように発表しないと偏った報道になり、ひいては世論誘導になるということであった。

しかし家族が拒否した場合は本人は死者ではなく生者であるのだから、公の記録には現れる筈がない。そこで「年間脳死者数」をネットで調べてみたが、もともと公の定義でない「脳死者」数を調べるのであるから、求めているデータが素直に出てこない。現時点で辛うじてたどり着いたのは救急医学から見た脳死と、時論公論 「改正臓器移植法 体制は十分か」ぐらいであった。前者には

脳死者の発生数

 年間の脳死患者の発生数は、3,000~4,000と推定されている。厚生省調査によるデータでは年間1,695例と報告されている。脳死者の発生場所はほとんど(80%)が救命救急センターである。救命救急センターでは年間約1,300例発生しているが、施設数が約100か所あるので、ひとつの施設で年間平均13例、1ヵ月に平均1例という計算になる。
とあり、また後者には

脳死は頭に大けがをしたり、脳出血を起こしたりしたときに、脳の機能がすべて失われて回復不可能な状態をいいます。日本で脳死になる人は、年間5000人から1万人と推定されています。

とある。データの出所、信憑性は検証していないが、それぞれの文脈からここに出ている数字が私の求めている「脳死者」数に相当するものとみなすことが出来よう。ここで少なめに年間の脳死患者の発生数を3000~4000とするのなら、一日平均10という数が出てくる。すると7月17日以降9月4日までの50日間に家族が承諾したのが6例であるのに対して、「脳死者」は500人発生したことになる。すなわち「脳死者」のほぼ100人に1人について、家族が脳死下臓器提供を承諾したことになる。新しい制度が始まったばかりのデータなので偏りのあることを前提にしないといけないが、承諾例が極めて低いことは事実として受け取れそうである。

「脳死者」のうち病院の方針や医師の判断で、家族に脳死下臓器提供の話をしていない場合もあるだろう。だから残りの100例中99例の家族がすべて脳死下臓器提供を拒否したことにはならないが、それでもかなりの家族が拒否したと推測出来る。「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛むとニュースになる」式でいうと、家族が受諾した場合があまりにも少ないのでニュースになったとも言えそうである。改正臓器移植法が施行された現在、家族の承諾状況の透明性を高めるために、少なくとも家族に打診のあった「脳死者」について、家族の承諾した例数、拒否した例数、その他の例数と、その内容を明らかにすることが必須ではなかろうか。そうした情報公開が、ひいては臓器提供の、もしくは拒否の意思を生存中に書面で表示しておくことへの関心を高めることにもなることであろう。

改正臓器移植法は実に巧妙な世論誘導の道具になっているのでは?

2010-09-03 22:46:01 | Weblog
改正臓器移植法が平成22年7月17日に施行されてから今日9月3日が49日目である。その間にすでに6例の脳死臓器移植が次のように行われた。

①関東甲信越地方の医療機関に入院中の20歳代の男性 脳死判定日は8月9日
②近畿地方の医療機関に入院中の(18歳以上の)男性 脳死判定日は8月19日
③東海地方の医療機関に入院中の50歳代の女性 脳死判定日は8月22日
④松山赤十字病院に入院中の40歳代の女性 脳死判定日は8月27日
⑤関東甲信越地方の医療機関に入院中の40歳代の男性 脳死判定日は8月28日
⑥北部九州の病院に入院していた40代の女性 脳死判定日は9月1日

この6例のうち④の40歳代女性は臓器提供意思表示カードを持っていたので本人の意思ははっきりしており、家族の承諾を得た上での脳死臓器移植であった。しかしその他の5例は本人が書面で臓器提供の意思を明らかにしてはいなかったが、家族の承諾により脳死臓器移植が行われたのである。なお①では本人が生前の会話の中で「万が一のときは臓器提供をしてもいい」という意向を家族に伝えていたとのことであり、また⑥でもこの女性が日ごろから移植について夫と話し合い、口頭で提供の意思を示していたとのことであるが、それは家族の意思決定にそれなりの影響を及ぼしたとしても、書面での意思表示でない以上、法的には脳死下臓器提供の本人の意思とはならない。だからこの5例に関しては本人の意思表示が不明のまま、家族が脳死下臓器提供を承諾したことになる。

この一連のニュースを追って私が不思議に思ったのは、報じられるこの④を除く5例のすべてにおいて、例外無しに家族が脳死下臓器提供を承諾していることであった。新聞報道などによると、①の場合こそ家族の承諾に3日という日数がかかったが、②、③では丸1日も経たない間に、⑤では即時に承諾が得られたようである。新聞報道にもとづく私なりの算定であるので参考データに過ぎないが、それにしても家族の決断が早くなっているような気がする。本人の意思表示が不明なので家族が迷った末、臓器提供を拒絶したことがこれまで一例もなかったのだろうか。報道されるすべての場合で家族が承諾したことばかりが強調されると、今後、同じような情況に置かれた家族が拒否しかねる流れが出来上がってしまうのではなかろうか。それを私は恐れる。家族が拒否した場合がこの49日間、ほんとうに一例も無かったのだろうか。

そう思ってみると、改正臓器移植法が施行されて最初の臓器移植が行われたのは24日目で、その後の47日目までの24日間にバタバタと6例の脳死臓器移植が行われているのが気になる。この期間の前半がまったくの空白であるが、もしかしてこの間にも脳死とされうる状態にあると主治医等が判断して、家族へ働きかけたのにもかかわらず、家族が脳死下臓器提供を承諾しなかった例があったのでは無かろうか。しかしどのようにしてその情報に接することが出来るのだろうと考えているうちに、ふとあることに思い当たった。現実にこのような事態が起こったとしても、それは改正臓器移植法の下では「脳死下臓器提供」を拒否したことにはなり得ないのではないか、と言うことである。

厚生労働省が公開している臓器移植法の改正内容に次のような解説がある。

2.臓器摘出に係る脳死判定の要件の改正(平成22年7月17日施行)

臓器摘出に係る脳死判定を行うことができる場合を次の(1)又は(2)のいずれかの場合とする。

(1) 本人がA 書面により臓器提供の意思表示をし、かつ、
   B 脳死判定の拒否の意思表示をしている場合以外の場合
   であって、家族が脳死判定を拒まないとき又は家族がないとき。

(2) 本人についてA 臓器提供の意思が不明であり、かつ、
   B 脳死判定の拒否の意思表示をしている場合以外の場合
   であって、家族が脳死判定を行うことを書面により承諾するとき。

問題になるのは(2)で、これによると、脳死下臓器提供を前提とした脳死判定は、家族が脳死判定を行うことを書面により承諾するとき以外は、行えないのである。ということは主治医等が脳死とされうる状態にあると判断して、その旨を家族に告げ、家族が脳死下臓器提供を承諾した場合は上の6例のように事が運ぶが、もし家族が承諾しない場合は脳死判定が下されないので、そういう事実があったにせよそれが表に出ることがなくなるのではないか。こうした場合を表面化するには、主治医等が脳死とされうる状態にあると判断して、その旨を家族に告げて家族から脳死下臓器提供を拒否された場合も、事例として記録に残すべきなのである。このようなデータがもし存在するのであれば、脳死臓器移植に至らなかった例数として、脳死臓器移植の例数と同じように公開されるべきであり、マスメディアはそれを伝えるべきである。もしそのような記録が存在しないのであれば、早急に記録に残すべきである。

脳死臓器移植につての私なりの考えはすでに「家族承諾のみで初の臓器提供へ」は家族が無理に言わされたのでは?をはじめとするいくつかの記事で表明しているので、出来ればご覧いただきたいが、もし私の上に述べた推測が正しいとすると、家族が承諾すれば「脳死下臓器提供」と数えられるのに、拒否したばかりにその重要な意思決定が何も無かったことになり、報じられるのはすべて家族が承諾したことになるものだから、承諾するのが当然という風潮を後押ししかねない。そうだとすると意図してかどうかなのかは分からないが、改正臓器移植法そのものが、実に巧妙な世論誘導の道具と化していると言わざるを得ない。厚生労働省はこの実態をぜひ明らかにすべきであろう。