日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

清虚洞一絃琴宗家四代目の生演奏を鞍馬寺にて聴く

2010-09-12 20:23:54 | 一弦琴
昨日の鞍馬山は暑かった。いや、行くまでが暑かった。ケーブルを降り、鞍馬寺金堂前の四明閣にたどり着くのに坂道と階段を登っている間に、頭から水を浴びたように汗をびっしょりかいてしまった。その汗をどう処理したかはさておいて、そこまでして何故わざわざ鞍馬寺までやって来たかというと、「義経祭奉賛の催し 清虚洞一絃琴 奉納演奏」なる催しがあって、そこで演奏される清虚洞一絃琴宗家四代目峯岸一水さんの一弦琴を聴くためなのである。

清虚洞一絃琴についてはホームページがあるのでそちらをご覧いただければよいが、私も細い糸ながら清虚洞一絃琴につながりがある。というのも私が以前師事していた師匠が清虚洞一絃琴宗家三代目から名を頂いているし、また私自身、国立国会図書館にてPhotoshopとIllustratorで「清虚洞一絃琴譜」のお手入れなどに記したことであるが、今も流祖・徳弘太著「清虚洞一絃琴譜」を教本として日々一弦琴を奏でているからである。その宗家の演奏がわざわざ東京まで行かずとも鞍馬寺で聴けるのだから、炎天下をものともせずにやって来たのである。

宗家の演奏は斉藤一蓉 詞・曲の「偲義経(しのぶよしつね)」と、ご自身の曾祖父、徳弘太 詞・曲「泊仙操」の春・夏の部であった。始めて聴いた「偲義経」は鞍馬寺の義経祭奉賛のために作られたのであろうか、聴いていると軍記物の世界に引きずり込まれる思いがした。めり張りのあるダイナミックな演奏がとても流麗で、一弦琴の新しいジャンルの出現を感じた。「泊仙操」は全部を演奏すると20分ほどかかる大曲で、私も一応師匠に教えていただき一弦琴「泊仙操」からで少し触れたことがあるが、今回は四季のうち春・夏の部が演奏された。

演奏が行われた屋根付き舞台は屋外にあって、前・左右の三方は露天に広がり、前の広場に張られた天幕下に並べられたベンチが観客席であった。このような開放的な場所で演奏するのに拡声装置を使う様子もなかったので大丈夫かな、と思ったが、いざ演奏が始まるとこの野趣味がなかなかよかった。観客は数十人いたが、周りは参詣客が自由に動き回っているので話し声に足音が結構耳に入る。しかし琴の音はよく通るし峯岸さんの歌声もちゃんと聞こえてくる。CDなどで下手な音響加工をされると人工的になって、特に一弦琴の演奏では本来の持ち味が失われてしまうが、拡声装置も使わない生の演奏を直接聴けたのがとてもよかった。

峯岸さんの歌声は素直で落ち着きがあり、いわゆる邦楽らしさから自由なのがいい。長唄とか十三弦などで喉を鍛えている方が一弦琴に転じて歌うとそれはそれで趣があってよいが、「ちょっと簡単にここまではこれないよ」と突き放された気になってなんだかよそよそしさを感じてしまう。峰岸さんの歌にはそういう「邦楽臭」を感じさせず、それでいて自分の感情やイメージをちゃんと表現出来る声が出来上がっているので、あのオープン・エアをものともしないのがとても印象的だった。お腹が声をよく支えているせいだろう。歌に耳を傾けていると、「あなたでも気持ちよく歌えるようになりますよ」というもう一つのメッセージも伝わって来た。

本音を申すと、私はお稽古ごとにのめり込んだご婦人方が無闇にあがめ奉る?家元とか宗家とかいう存在にとくに関心はない。しかしプロとしての家元を周りが育て盛り立てていくための制度としてみると、それなりに納得できるところもある。一方、プロである家元・宗家は、たとえば一弦琴を奏でることを喜びとするアマを育てるのが責務であり、その意味ではプロトアマの間には、囲碁・将棋の世界で明らかなように、判然とした力の違いがあってしかるべきである。一弦琴のアマを自認する私にとって、何かを学び取ることの出来るプロの存在は精進に欠かすことの出来ないものだと思う。その意味で清虚洞一絃琴宗家四代目峯岸一水さんの演奏に触れることができたのは大きな収穫で、同時に周りの方々の支えを多とする思いに駆られた。

演奏に参詣者が撞くのだろうか鐘の音がかぶさってくるのもこういう場ならではの風情で、ほぼ80分に及ぶ一弦琴の演奏と話を心から楽しんでいる間、心地よい涼風がすっかり汗を吹き払い去っていた。

おことわり
この文章で「一弦琴」と「一絃琴」を混用しているが、私は従来から「一弦琴」を用いているのでそのまま使っている。しかし「一絃琴」が使われている場合には「一弦琴」に書き直すことをせずそのまま用いた。考証の材料になりそうである。現時点でGoogle検索を行うと「一弦琴」では約49000件が、「一絃琴」では約18000件が引っかかってきた。

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