日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

「ミレニアム」 本が先か映画が先か

2010-02-12 12:18:54 | 読書
日経夕刊で映画「ミレニアム」の紹介記事を見て面白そうと思ったのが始まりである。そういえばジュンク堂で「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」で始まるシリーズの本を見かけたが、「ドラゴン・タトゥー」という言葉のおどろおどろしさにきわもの的なものを感じて、本を手に取ることもなかったのである。ところが映画評を見て本を読みたくなり、同じ読むのならペーパーバックスでと思いしらべたところ英語版がすでに2冊出ている(原本はスウェーデン語、3冊目は4月刊行予定)のでamazon.co.jpから取り寄せた。2冊合わせて1978円、これに相当する日本語版の「ミレニアム1,2」だと6800円になる。


本を少し読みかけた頃、シネ・リーブル神戸で映画の上映が始まったので、映画をまず観た方がストーリーも分かって本も読みやすくなるだろうと思い、10日に観るつもりであった。ところがあいにくの雨模様で出かける気をなくし、その代わりに本に少し集中した。人名、地名が馴染みのないスウェーデン語ということもあって少々引っかかったが、読み進んでいくうちに話の展開に引きずり込まれ出した。そして昨日も一日中雨だったので読書に専念、ますます面白くなった。100ページ足らずのところでおもな登場人物が大体出揃ったと思うが、人物描写がよくできており、人物同士の関わり方がお互いの心の動きも含めて実に細やかにそして生き生きと描かれている。そして物語の展開に好奇心がますます掻きたてていくのである。そして私の心にも変化が生じた。

物語に引きずり込まれる。これが読書の大きな醍醐味である。ページをめくるのもまどろっこしくなりだしたこの「Millennium」こそ、まさにpage-turnerなのである。しかし映画を先に観てしまうとこの楽しみが奪わてしまいそうな気がして昨日辺りから本が先か映画が先か、悩み始めた。そして今や私の気持ちはほとんど本の方に傾いてしまったようである。

実は本を読むことにもう一つ楽しみが加わったのである。iPhoneのApp Storeで「ロングマン英和辞典」(2400円)を購入して使い始めたところ使い勝手が実によい。iPhoneを左手で持って検索単語を画面に現れるキーボードから右人差し指で入力する動作が辞書をめくる動作に相当すると思えばやや時間がかかっても苦にならない。ベッドで上向きに寝ていても簡単にできる。重い辞書では考えられないことである。しかも今まで検索した単語、ということはやや使用頻度の低い言葉になるが、そのすべての発音をスピーカーで聞くことができるので頭にも入りやすい。あんなことこんなことで、映画より本が先になってしまった。映画の上映は19日までの予定であるが、もし延長になれば本を読み終えて観られそうである。

プリウスのリコール届け出 そしてアメ車の暴走とフロアマットのこと

2010-02-09 21:43:10 | Weblog
今日になってトヨタが新型プリウスなど22万台(日本のみ)のリコールを届け出た。昨年5月以降に販売した3代目プリウスで、滑りやすい路面を低速で走行中に1秒前後ブレーキが利かなくなるという問題があり、米国、日本などでクレームが寄せられていた。これに対してトヨタは当初「ブレーキを強く踏めば車は止まる。フィーリング(運転感覚)の問題だ」(佐々木真一副社長)として欠陥とは認めずに「フィーリング(運転感覚)」面を強調したが、一方ではアンチロック・ブレーキ・システム(ABS)の制御ソフトを修正してこの問題を解決した車を今年の1月から生産しているのである。フィーリングとか余計なことを言わずに、制御ソフトの修正で最初から対応しておけばよいと思うのに、なんだかもたもたしたあげくに結局この件でリコールを届け出たのである。今年1月21日以降、稼働部がすり減るというアクセルペダルの不都合によるリコール、さらには昨年秋の米国でのレクサス暴走事故の原因が、アクセルペダルの戻りを邪魔するフロアマットのせいであるとしてのリコールと続いての不祥事である。

ビッグ3も日本の自動車産業もしょせんは虚業?(2008年12月5日)でも述べたことであるが、「稼げる間に稼げとばかりに借金まみれの米国人に車を次から次へと売りつけた」トヨタの売り急ぎ体質がこのようなトラブルの遠因であるように思う。トヨタがどのように立て直しを計るのか注目したいと思うが、今日はトヨタの躓きの一歩となったフロアマット問題で、私には分かりかねることがあるのでそのことを述べてみようと思う。

もう30年ほど前の話になるが、私が米国ロサンゼルスの空港でレンタカーをした時のことである。手続きを済ませアメ車に乗り込みエンジンを始動した。エンジン音が高いとは思ったがそのままシフトレバーをドライブに入れた途端、車が急に勢いよく走り出したのである。ブレーキを力一杯踏み込んでも停まってくれない。そのままシフトレバーを急いでニュートラルに入れてようやく車を停めてなんとか事なきを得た。レンタカーのオフイスに戻り苦情を申し立てると、アイドリングを高くしているからそれが下がるまで待つんだと言われ、そんなものかと思って引き下がった。確かにアイドリングが落ち着くまで待つとそれからは不都合は起こらなかった。しかしアクセルも踏まないのに車が飛び出した時は、そのまま暴走を続けていたらどうなったことかとあとから思い出してぞーっとした。

だからアメリカでレクサスが暴走して交差点に入り他車と衝突して大破炎上し、4人が亡くなったという痛ましい事故で私が疑問に思ったのは、ブレーキを踏んでも利かないのならなぜシフトレバーをニュートラルに戻さなかったのだろうということであった。見逃しているのかも知れないが、この時のドライバーがブレーキを踏む以外にどのような操作をしたのか詳細は不明である。事故車のシフトレバーの位置がどこにあったのか、どこかに報告があるのなら見たいものである。このニュースを報じたasahi.com(2009年10月1日1時38分)に次のような図解が出ていた。

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明らかにシフトレバーをニュートラルに入れてブレーキを踏む操作が想定されているし、されにニュートラルに入らない時にエンジンを止める操作も取り上げられている。このいずれの対応もこの事故車では取られていなかったのだろうか。それが私の抱いた疑問である。これは同時にこの図解への疑問にもなる。何が原因でシフトレバーをニュートラルに入れられなくなるのだろう。この図解ではそういうこともあり得るといとも安易に想定しているようであるが、アクセルペダルが戻らないという機械的な理由だけでニュートラルにレバーを戻せなくなるとは私にはどうしても理解できない。機械的な理由だけならアクセルペダルのバネを強くするのも一つの対処の仕方であろう。というのも昔のアメリカでのフロアマットの使われ方を私は知っているからである。

まだ日本車がほとんど走っていなかった頃のアメリカで生活した日本人なら経験したことだと思うが、たとえばシアーズのようなところで買ったフロアマットを自分の車に敷こうとすると、必ずと言っていいほどアクセルペダルを覆う形で上に一部が乗っかるか、またはペダル全体を覆ってしまっていた。自分の車種にぴたりと合ったフロアマットなんてあるはずもなく、車の大きさに合わせて汎用のものを買ったからである。今の日本人には想像も出来ないかも知れないが、フロアマットがアクセルペダルにかかることは少なくともかってのアメリカ人にとっては当たり前のことであったと言える。思うにそれを知っているアメリカのメーカーは、アクセルペダルのバネがフロアマットを跳ね返すぐらいには強くしていたのではなかろうか。そう言えば私の乗っていたFord Futuraもハンドルはパワーステアリングのような洒落たものではなく、腕力で回していた。ところが今や電子制御万能になってきている。だから仮にフロアマットが第一義的にアクセルペダルの戻りを邪魔したとしても、それだけで終わればニュートラルに戻すことで対処が出来るはずのところ、それが出来なかったとすれば、なにか電子制御系統に異常が生じてそれが制御不能を引き起こす可能性を考えなければならないのではなかろうか。素人談義はこれまでに止めるが、まんざら的外れでもないことを次の新聞報道が示唆しているような気がする。

トヨタ車暴走 米、電子制御系を調査
リコール問題 制裁金検討か
 【ワシントン=岡田章裕】米運輸省のラフード長官は2日公表した声明の中で、昨年起きたトヨタ自動車の高級車「レクサス」の暴走事故に関連し、「エンジンの燃料弁の電子制御システム(ETC)が原因である可能性がある」と指摘、徹底調査する意向を明らかにした。

 電波の干渉が、意図しない加速を引き起こす可能性があるとしている。

 トヨタは「電気系統に問題はない」と説明してきただけに、新たな不具合が見つかれば、さらに信頼を損なうことになる。調査は数か月かかる見通しだ。

 ETCは、ドライバーがアクセルを踏み込んだ深さに応じて電気信号をエンジンに送り、燃料弁を調節して車の速度を上げ下げする。

 大規模リコールを行うアクセルペダルの不具合について声明は、「問題は決着しておらず、欠陥の可能性を調査し、リコールの履行状況の監視を続けていく」と強調した。また、米メディアは大規模リコール問題で、運輸当局がトヨタに民事制裁金を科すことを検討していると報じた。
(2010年2月3日 読売新聞)






ゲオルギューとアラーニャのメトロポリタンオペラ「つばめ」 迫真演技の謎?

2010-02-08 12:55:08 | 音楽・美術
2月5日、前の金曜日であるがNHKハイビジョンでメトロポリタンオペラ、プッチーニの「つばめ」を観た。主役を演じるロベルト・アラーニャ(T)とアンジェラ・ゲオルギュー(S)の夫婦コンビに酔いしれた。二人の歌声を初めて聴いたのはCDの「Roberto Alagna & Angela Gheorghiu Duets & Arias」(EMI)で、日本語版では{アラーニャ&ゲオルギュー/愛のデュエット集}となっており、何故かその2枚が私の手元にある。ミミとロドルフォの二重唱「愛らしい乙女よ」がとくに評判になっていたようで、二人の若さとリリシズムに満ちあふれた歌声にうっとりとしたものである。私の好きなのはドニゼッティ「ドン・パスクワーレ」からの二重唱「もう一度、愛の言葉を聞かせて」で、聴くたびに夢心地に引き込まれる。1995年の録音で63年フランス生まれのアラーニャが32才、65年ルーマニア生まれのゲオルギューが30才、まさにこれから歌の世界に羽ばたくその首途の時期であったのだろう。アラーニャはこれが2枚目のCDであるがゲオルギューにとっては最初のリリースであった。初々しさが満ちあふれた姿がその写真から感じ取られる。前妻をガンで1994年に喪ったアラーニャがゲオルギューとステージやレコーディングで一緒に歌う機会を重ねるうちに恋に陥り96年に結婚したので、このCDはその記念盤にもなっている。


この「つばめ」でお二人に久しぶりにお目にかかった。15年の歳月を経て、アラーニャはこれが?と思うほどの変貌を遂げていたが、ゲオルギューの容姿からは女性ならではの節制が感じ取らた。

プッチーニの「つばめ」は私はこれがはじめてである。歌劇 「つばめ」に物語の概要が述べられているが、パリでも指折りの銀行家ランバルドの愛人であるマグダをゲオルギューが、田舎出の若者ルジェーロをアラーニャが演じ、恋に落ちた二人が南仏ニースの瀟洒な別荘で愛の巣を営むことになる。しかし増える一方の請求書に二進も三進も行かなくなったルジェーロは親に金の無心をし、その上マグダとの結婚を認めさせるなど道楽息子ぶりを発揮する。そのルジェーロにマグダの心は深く惹きつけられるが、自分の過去を思うと結婚はできないものと思い定め、すべてを告白してルジェーロから離れてランバルドのもとに帰って行く。「椿姫」と相通じる筋立てで、美しい旋律の流れていくところもなんとなく似ている。仲むつまじいマグダとルジェーロは絶えず抱き合っては歌の合間に濃厚な口づけを交わす。この程度なら今や驚くに当たらないが、別れの愁嘆場を演じるアラーニャの迫真の演技には度肝を抜かれてしまった。涙が滂沱と流れ落ち水っぱも派手に垂らして、それでいて歌っているのである。そこまで出来る歌手が、またそれをやらせる演出家が日本にいるのだろうか、と、超えることの出来ない力の差を感じて圧倒されてしまった。これでは日本人の演じるオペラは所詮学芸会のレベルを脱しえないのではないかと思ったからである。

しかし話はそれほど単純ではないようなのである。つづきがあった。ゲオルギューとアラーニャの近況が知りたくてネットを訪ねてみたところ、なんと昨年の10月に二人の離婚が報じられているのである。ゲオルギューの母国、ブカレストの新聞は次のように伝えている。


そして彼女の公式サイトではその前日2009年10月10日付けの声明があり、彼女がアラーニャとすでに2年間も別居生活をしており、その間、結婚生活をそのまま続けようと試みたものの、その試みが失敗に終わったことを述べている。

2月5日に放映された映像は2009年1月10日のマチネーのもので、この舞台は2008年12月31日から始まった、メトではこの70年間ではじめての公演だそうである。とするとこの時のゲオルギューとアラーニャはすでに別居生活に入っており、しかし結婚生活を続けるための努力が稔らず、家庭生活を愛するアラーニャにとっては耐え難い破局への予感が高まりつつあるころの舞台であったことになる。あの迫真的な演技が、去っていこうとするゲオルギューをどうしても引き留めることのできない己の無力さへの涙であったとすると、日本人歌手ならずともそこまでの演技に肉迫できる歌手はほかにいなかったのかも知れない。人生とドラマ、表裏一体を感じてしまった。2009年8月11日にゲオルギューが年末にメトでアラーニャと共演するはずの「カルメン」への出場を個人的な理由と言うことで取り消したので、この「つばめ」が二人の最後の共演舞台となったのだろうか。

なるようになった「小沢幹事長 vs 民主党 = 朝青龍 vs 日本相撲協会」

2010-02-05 13:23:40 | Weblog
現時点で民主党小沢一郎幹事長も朝青龍も刑事責任を問われることがないままに、小沢幹事長の不起訴と朝青龍の引退がきまった。今日の朝日朝刊は第一面がそれを報じている。私がなんとなく予感したとおりの成り行きであった。


朝青龍に関しては取り沙汰されている暴力事件の真相が未だにはっきりしないので、刑事責任の有無はともかく、それなりの心証を抱いた横綱審議委員会が横綱に引退勧告を突きつけたことが事を決したようである。私も含めて多くの人が納得できる処分と言えよう。

それにしても朝青龍は強かった。大相撲はいつもNHKの夜7時のニュースで見ているが、最後となった一月場所でも強さを思う存分発揮し、あの巨大な把瑠都を胸の空くような下手投げで文字どおり放り投げたときは私も惜しみなく拍手を送ったものである。しかし品位・品格という資質に欠けるとみなされたことが彼の運命を決めた。元来品位品格を作り上げるのは親方の指導あってのことなのだろうが、適切な師匠に巡り会わなかったのが不幸せであった。しかし国技を標榜する大相撲を外国出身力士に頼っている今の日本相撲協会の姿勢そのものが今回の事態を招いたのであり、私は以前に朝青龍問題 日本相撲協会は『皇民化教育』を廃すべしで述べたように、外国人の日本人化を早々と諦めるべきなのである。横綱審議委員で歌舞伎俳優の澤村田之助さんが、同じく朝日朝刊で次のように述べているのが印象的だった。

歌舞伎の世界には、外国人も女性もいない。外国人力士が増えたことで教育が難しくなったことはよく分かる。また、いまの子供たちは昔に比べて甘やかされて育ち、甘い気持ちを持っていることが多いように思う。世間の風潮もあって、厳しい指導は難しくなってきている。それはそれとしても、各親方がしっかりと指導していくことが必要だ。

何事も各親方任せでいつも逃げてきた日本相撲協会である。そうかと言って、出稼ぎに来た外国出身力士をしっかりと指導出来る親方を日本相撲協会が本気で養成したわけでもない。強さ抜群の朝青龍を失うことは日本相撲協会が墓穴を自ら掘ったと言えよう。

一方、嫌疑不十分で不起訴となった小沢幹事長について、私は世間がマスメディアに煽られだけのことであったと思う。自分のために仕事をしてくれていた人が3人も起訴されたというのに、その仕事をやって貰っている肝心のご本人である小沢幹事長が不起訴というアンバランスがまかり通ること自体がおかしいのである。一昨日にも述べたが、トカゲの尻尾切りを公然と許すようなザル法政治資金規正法の改正の重要性こそ、マスメディアは訴えるべきではなかったのか。

これまでも折に触れて述べてきたが、検察からのリークとか言われるようなニュースソースを明らかにしない報道記事は少なくとも私にはまったく無価値なのである。今回の石川議員の逮捕にあたっても、逮捕状には逮捕されるべき被疑事実の要旨が記されているだろうから、それさえ公表されれば私には十分である。あとは淡々と公判過程を見守ればよい。あれやこれやマスメディアが口を挟むこともまったく不要である。定められた事務手続き通りに事が運ばれておればあとは結果がものをいうのみ。マッチポンプ的報道に憂き身をやつしているとそのツケはいずれその身に降りかかってくることだろう。

亀井静香金融・郵政改革相の歓迎すべきお節介?

2010-02-04 11:05:07 | Weblog
 亀井静香郵政担当相(国民新党代表)は3日、郵政民営化見直し後、20万人超の日本郵政グループの非正規雇用従業員を正社員にするよう同社に求める考えを国民新党議員との会合で明らかにした。

 同社の非正規従業員(派遣社員含む)は約20万5千人。約23万1千人の正社員を加えた全従業員の5割弱を占める。正社員化はコスト増にもつながり、会社側の反対は必至だが、亀井氏は記者団を前に、「経営権にまで介入するのかと批判されると思うが、そこまで踏み込んだ改革をやらなくてはいけない」と強調した。
(asahi.com 2010年2月3日19時20分)


「経営権にまで介入するのかと批判されると思うが」と断りながら、「正規の郵便局員と同じ仕事をしていて正社員になれない人がたくさんいる。そういう人たちは正社員に切り替えていく」と、この当たり前のことをさらっと言い放つ亀井大臣に私は感動を覚えた。正社員と同じ仕事をしておりながら、景気が悪くなれば真っ先に整理される運命にある非正規雇用従業員の存在を、いまや不思議ともなんとも思わない経営者への大きな一石である。どのような叡智が亀井大臣の提言を現実のものとしていくことやら、日本人の能力を信じて行方を見守りたい。

ついでながら、大学の教育現場で同じような立場にある非常勤講師にも、同じように光が当たって欲しい。

政治資金規正法の改正を今国会で!

2010-02-03 17:46:07 | 社会・政治
私の頭の中で今、小沢幹事長 vs 民主党 = 朝青龍 vs 日本相撲協会という構図が出来上がっている。民主党が次の参議院選挙で勝って過半数を占めるために小沢一郎幹事長を必要としているように、日本相撲協会は興行成績をあげるために朝青龍を必要としていることが似通っているからである。その両者が刑事事件にどのようにかかわるかでお互いの身の振り方が決まるかのような話もよく似ている。さらに言えば、小沢幹事長なり朝青龍がいったいどのような悪いことをしたのか、われわれにさっぱり分からない点でも、そして二人のことをそれぞれの所属団体のほとんどのメンバーが口をつむんでいることでもよく似ている。以前から取り沙汰されている日本相撲協会の前近代的体質は、今回改めて理事の選挙方法の経緯などを通して知れ渡ったが、ここに描いた構図は実は民主党も日本相撲協会と似たような体質であることお浮かび上がらせたと言える。要するに前近代的な政党なのである。いや、ある面ではさらに遅れているのかも知れない。朝青龍について言えば、刑事責任の有無にかかわらず横綱の品格をどうとらえるかという面からの厳しい成り行きが予感されるが、そもそも品格すら今や問われなくなった政治家は刑事責任さえなければ何も恥じることがなくなるという、常識人から見れば厚顔無恥としか言いようのない振る舞いが常態となっているのである。たとえば小沢幹事長の政治資金規正法違反事件へのかかわりについて、日経ネットは小沢幹事長の言葉をこのように伝えた。

同事件に関連し「私自身が刑事責任を問われることになれば責任は非常に重いと思う」と述べ、刑事責任を問われた場合には自らの責任問題は免れないとの認識を示した。ただ「ヤミ献金やらなにやら不正なカネは一切受け取っていない。刑事責任は問われる事態は想定していない」と主張した。
(日経ネット 2月1日 17:14)

刑事責任を問われることがなければ清廉潔白が証明されることになる、と言わんばかりではないか。会計責任者の違法行為が明らかになったにもかかわらず、自らの名前で提出されたその報告書に目を通したこともなければ触れたこともないとの、そもそも政治家としての当然の責任を放棄した言い訳がまかり通り、違法行為についての責任から逃れられるのであれば、それは法律そのものがおかしいのである。こういう遁辞を許さないためにも政治資金規正法の改正を現国会で早急に行うべきである。それを主導することがザル法のお陰で刑事罰を逃れた鳩山代表、また今にも逃れようとする小沢幹事長を頭に抱く民主党が、政権政党として最低限果たすべき義務であろう。

さきほど配達された日経夕刊にタイムリーな記事があった。さあ、民主党の取り組みをじっくりと拝見することにしよう。



貴乃花親方相撲協会理事に当選! 強い日本人力士育成を期待

2010-02-01 15:56:29 | Weblog
今日はすっかりミーハーになって日本相撲協会理事選挙の結果を見守っていた。貴乃花親方支持派の持つ票は本人を含めて7票、当選には少なくとも10票は必要なので、各一門の締め付けが厳しい現状では当選の可能性は0なのである。これまでは投票用紙に候補者の名前を投票者が自筆で書いていたので、建前は無記名でも筆跡で誰が誰に投票したのか、必要とあれば調べることが出来たことであろう。しかも投票箱の前に立会人が並んでいて、誤字とか書き間違えがないように記入内容を立会人に見せて投票箱に入れたという、私には信じられない投票方法が取られていたと言うから、割り振り通りの投票結果になるのが当たり前だったと言える。だから従来の投票方法では造反票の出る可能性はきわめて低いと言わざるをえないが、テレビを眺めていると文部科学省の指導があって、その投票方法が今回改められたとの情報が流れてきた。投票用紙に候補者11名の名前があらかじめ記されていて、その上に丸印を記入することになったという。さらに立会人と投票箱との間が5メートルとも10メートル(レポーターによって内容が違っていた)とも伝わって来て、番狂わせを期待できる雰囲気となったのである。そして大島親方(元大関旭国)の落選と引き替えに貴乃花親方の理事当選が決まった。10票獲得したそうである。

貴乃花親方は37才で、今回当選したほかの50代、60代の理事にくらべるとその若さが際立つ。橋下徹大阪府知事が当選したときは38才でとても新鮮に感じたがそれと同じ思いである。貴乃花親方がなにを目指して理事を志したのか、もうひとつ報道からは伝わってこないが、日本相撲協会の現状に対する批判的な姿勢が根本にあってのことと思う。そこで私も一つ希望を述べたい。

理事選挙と軌を一にして今世間を騒がせているのがまたもや「朝青龍事件」である。事件と書いたが何がなにやら真相が伝わらないままで、今のところ報道だけが過熱している。しかし事実として間違いのないのは大相撲一月場所の最中である1月16日の午前4時ごろ、港区西麻布で横綱が泥酔状態になっていたと言うことらしい。それだけでももってのほか、と言いたいところであるのだが、この日も本場所では東前頭三枚目の北勝力を高々と吊り出しで破っているのだから、相撲そのものには文句をつけられない。しかし逆に言えば、素人目には不摂生そのものに見える横綱に手もなく負けてしまう日本人力士の不甲斐なさである。なんとしてでも強い日本人力士が出てきて欲しい。以前に朝青龍問題 日本相撲協会は『皇民化教育』を廃すべしで述べたことであるが、私には私なりの理屈があって大相撲はやはり日本人力士で盛り上げて貰いたいのである。だからこそ大相撲の原点である力強い日本人力士育成の道を貴乃花新理事に切り開いて欲しいと願うのである。