日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

敬老の日に紅白饅頭

2007-09-16 12:22:06 | Weblog
日曜日なのに朝からドアホンが相次いで鳴る。かねて予約していた本がAmazon.comからまず届き、そして町内自治会の世話係が紅白饅頭を持ってきてくださった。

子どもの頃、もうすでに戦争が始まっていたが、朝鮮の京城三坂国民学校でなにかの祝日に式に出てから紅白饅頭を頂いたことがある。家族と分け合ったその一切れの、中のあんこをペロペロ舌で舐めた記憶がある。

敬老の日になると母に頂いた紅白饅頭のお相伴に与ったものであるが、それがいつのまにか自分に頂けるようになった。敬老なんていわれても面映ゆいし、そんな大したものではございません、と見えを切りたいところ、好物の饅頭なので有難く頂戴した。紅白二個とも独占できるのが嬉しい。二人しか居ないわが家に二箱頂いたからである。

そこで一弦琴「住の江」を前回より調子を上げて気持ちよく唄った。


追記(9月17日) 暦の上では今日が「敬老の日」だった。

   紅白饅頭を貰ったものだから9月16日が敬老の日かと

一弦琴「住の江」再演

2007-09-13 10:25:32 | 一弦琴
以前にこの曲を私家版の演奏としてアップロードしたことがある。要するに我流の演奏である。最近自分で聞き返して愕然とした。演奏の一部に品がないのである、それも我流の部分が。そこで改めてお師匠さんにお浚いをしていただいてた。ほどほどの出来であるが忘れないうちに正調版として録音に残すことにした。もちろん私家版は抹消である。


          詞 世阿弥
          曲 真鍋豊平

高砂や この浦舟に 帆をあげて
月もろともに 出で潮の
波の淡路の 島影や

遠くなるをの 沖過ぎて
はや住の江に 着きにけり

京大病院での和解成立に

2007-09-12 20:09:38 | 学問・教育・研究
昨日(9月11日)は京都まで一弦琴のお稽古に出かけた。10月末の演奏会に向けて、もっぱら出来上がり具合をお師匠さんにチェックしていただくのである。演奏予定の曲はすでに何ヶ月もかけて一応仕上げたのであるが、またお浚いの繰り返しなのである。考えてみたら今年に入って新たに仕上げた曲はこれを含めて二曲、いやはや悠長なものである。これでは若い人が入ってくるはずがない。なんせ浮世離れの世界である。

そして今朝になって私の以前のエントリー京大病院 外科の教授を飼い殺しとはもったいないへのアクセスが急に増えていることに気がついた。何か進展があったのかと思ったが、朝刊を開いて納得した。朝日朝刊に「米田教授と京大病院和解 地位保全仮処分巡り 14日付け復職、翌日退職」と報じられていたからである。《米田教授の辞令交付と辞職願の提出はすでに済んでいるが、双方が「和解内容を積極的に公表しない」とで合意していた。米田教授の代理人弁護士と同病院側は、コメントは控えるとしている。》とのことである。

《和解は8月24日に成立。米田教授が診療科長として新しい手術や治療の開発に努め、学生や医師の国際性を高めた実績を同病院側が認めることなどが条件。米田教授はいったん診療科長に復職した後退職し、その後も同病院の外部調査委員会による心臓血管外科の調査、検証に協力する――などとしている。》(asahi.com 2007年09月11日)とそれなりの形は整えたものの、結果的には米田教授が追い出されたことになる。

米田正始教授の医師・教授としての実績を病院側が認めるということだから、氏のプロフェッショナルとしての名誉は一応回復されたとみるべきであろう。新たな舞台で大いに腕を振るっていただきたいものである。双方とも「和解内容を積極的に公表しない」ということであるが、今回の出来事を「コップの中の嵐」に終わらせないためにも、問題の発端となった「脳死肺移植を受けた患者が脳障害を起こして死亡」に至った経緯について、京大病院の外部調査委員会による調査報告と改善された取り組みの迅速な公表が待たれる。

そのプロフェッショナルの集まりであるはずの京大病院で、あるトラブルが発生したと昨日の朝日朝刊が報じていた。《器具欠損、気づかず手術 京大病院、患者161人に謝罪》とという見出しで始まる記事である。《昨年9月、同病院の医師が、鉗子の二股の基部にあるセラミック製の絶縁体が欠けているのを見つけた。これを受けて、同病院で使用していた計15本の云えよう器具を点検したところ、ハサミ3本、鉗子2本の同じ部分に最大で約3ミリの欠損が見つかった。》のであるが、そこで《同病院は、この医療器具で手術を受けたとみられる患者161人に文書で謝罪。》とのことである。

私は専門家ではないのでこの器具欠損がどれほど重大な意味をもつのか分からないが、副院長が「管理が不十分だった」と話していることから判断すると、医療の現場であってはならないことなのだろう。これらの器具を医師が最終的に手にするまでに、何人かの看護師など他の医療スタッフの手を経ているはずである。自分の手にするもの目にするものに職業的に訓練された注意力を向けておれば、必ず防げた事故であろう。

器具欠損で161人もの患者に謝罪したというのはいかにも人数が大きすぎるし、そこまで気づかなかったとは医療チームとしてはなはだお粗末と云わざるをえない。そのお粗末な医療チームと米田教授の追い出しには一見繋がりが見えてこないが、「悪貨は良貨を駆逐する」とのグレシャムの言葉がふと私の頭を横切った。


遅すぎた安倍首相の辞意表明

2007-09-12 13:58:24 | Weblog
安倍首相は「私か小沢か」と国民に問いかけて参議院選に惨敗した時点で、自らの言葉を大切にする方なら、辞職すべきであった。

しかし「改革継続」をお念仏に続投を強行したはずなのに、インド洋における海上自衛隊の給油継続に職を賭すことになり、臨時国会で所信表明を行い、代表質問が午後1時から始まるはずであったのに、その直前での辞意表明である。

この迷走ぶりに私は言葉がないが、自分の言葉の重さを自覚できる当たり前の常識人に次の政権を担って欲しいものである。

午後2時から安倍首相の記者会見が始まるらしい。今度はどのような言葉が飛び出るのだろうか。

フードマイレージの善し悪し

2007-09-11 09:34:33 | Weblog
朝のテレビでフードマイレージの紹介をしていた。鮭の話の時から見始めたが、産地から消費地まで鮭を輸送するとその距離に応じて炭酸ガス排出量が増えるという話である。記憶が定かでないが、ロシア産の鮭を都会まで運搬するのに一切れ当たり21グラムの炭酸ガス排出量に対して、メキシコ産だと84グラムになるとのことだった。スーパーなどで食品にフードマイレージを記載しているのもあるようだが、では炭酸ガス排出抑制に協力するつもりで皆がロシア産を買ってメキシコ産が売れ残ったら、何のために4倍もの炭酸ガスを排出してまでメキシコ産鮭を輸入したのか、ということになってしまう。

豊かな田園が広がっていたから都会を離れた農村地帯なのだろうか、そこで店を開いているイタリア料理のレストランが紹介されていた。食材の野菜類はすべてフードマイレージがゼロ、店の近くの畠でオーナーが栽培しているからである。地産地消を地でいっている。確かに運送は不要だから炭酸ガス放出量はゼロである。しかしこの店の評判が高くなって、われもわれもと都会から大勢が車で押しかけてきたら、この炭酸ガス排出量は馬鹿にはならないはずである。

ものごとのある一面だけを強調するのは善し悪しである。

昭和天皇に『惚れ薬』

2007-09-09 17:17:47 | 読書
連日最高気温が30度を上回る。夜もエアコンを入れて1時間後に切れるようにして就寝する。ところがこの二三日、朝の5時前後に蒸し暑くて目が覚める。再びエアコンを入れるが直ぐには寝付けないので、ついついベッドサイドの本棚に手を伸ばす。今朝もたまたま手にした本が面白かったので、以前に読んだはずなのにまた読みふけることになった。岡茂雄著「本屋風情」(中公文庫、昭和58年刊)である。



著者紹介によると《明治二十七年(1984)、長野県に生まれる。陸軍幼年学校、陸軍士官学校卒業。大正九年、陸軍中尉で軍籍を離れ、鳥居竜蔵に師事し人類学を志す。関東大震災後、文化人類学関係の岡書院、山岳関係の梓書房を創立し、幾多の名著を世に送り出す》とある。なかなか風変わりな経歴である。

出版業という職業柄、多くの著名な学者や文人に接したが、師弟関係や社会的な立場でお付き合いする人を表門からの訪客とすると、裏木戸からのく出入り人と自らを置いている。学者、文人が表玄関向きの姿勢から解放されて、その人のもつ生地が不用意に現れる、本性に触れることが多いというのである。そこで見聞きした話を中心にまとめたものだから、私好みのゴシップ集になっている。そんなことで書棚に収まったのだろう。

出て来る人物を目次から拾うと、南方熊楠、柳田国男、新村出、金田一京助、内田魯庵、青陵浜田耕作(青陵は号、京都帝大代総長)岩波茂雄、渋沢敬三等々であるが、このほかにも多士済々である。

南方熊楠翁にまつわる話はやはり面白い。

熊楠翁からの手紙には「拝啓何日何時何分出御状何日何時何分拝受」と書かれているものだから、それを受け取った側も「何月何日ご投函のお手紙を何日何時何分拝見しました」と書かなければならなかったし、封筒の裏にも「何年何月何日何時投函」と明記したという。少しでも返信が遅れるとお叱りを受けそうで、私ならそれだけで敬遠してしまいそうである。

著者があるとき標本を見せようと土蔵に連れて行かれて《アルコール漬けのキノコのようなものがあった。翁はそれを指差して「これは惚れ薬というてな、おなごに見せると、とろりっとしてしもうでな」と坦々といわれ、私はあやうく噴き出そうとして耐えた。》というようなことがあった。そして続きがある。

南方熊楠翁が昭和四年六月一日に和歌山田辺湾のお召艦上で昭和天皇にご進講申し上げた。翁自身の言葉によると、ご進講の直前四昼夜のうち八時間しか眠らずに準備に没頭したとのことなので、翁の興奮と緊張と張り切りぶりが窺われる。そして熊楠翁のご進講話を著者はこのように伝える。

《「君にも見せた、あの惚れ薬の標本な、あれもごらんにいれてご説明申し上げたら、天皇陛下はなあ」といって、翁は机の上に両手をひろげてつき、机の表面をフンフン嗅ぎまわすようなしぐさをなさりながら、「こういうことをなさった。妙なことをなさると思うていたが、あとでお付きの人の話だと、天皇陛下はお笑いをこらえていなさったのだそうだ。天皇陛下のような、えらーいお方になると、人の前で笑ったり怒ったりしなさってはいかんもんだそうだな」と、にこりともせず、むしろ、さも感じ入ったという面持ちをなされた。私は幸いにえらーくないので、思わず笑ってしまった。》

昭和天皇は『惚れ薬』が男女間に及ぼす効果をご理解された上で、熊楠翁の話につい釣られてお笑いになったのだろう。『惚れ薬』を献上されたのかどうかも気になるが、人間天皇のお姿が垣間見られる挿話が嬉しい。

このような話に出会すと睡眠不足があまり気にならなくなってしまう。

追記(9月9日)
紹介しようと思っていた話を書き忘れていたので追加する。

《「杉村(楚人冠)(筆者注、和歌山県出身の朝日新聞記者)はくだらんことをいう奴だ。わしが、あれで障子を突き破ったなんていうておる(といわれたか、書いているといわれたかは忘れた)」》という話、もちろん石原慎太郎氏の「太陽の季節」が現れるより遙か前のことである。ついでに、熊楠翁が亡くなったのは74歳。それよりもずっと以前から翁と呼ばれていたようであるので、それだと私もりっぱな翁ということになる。エヘン!

嫁と姑が和合するには

2007-09-07 23:25:38 | Weblog
私の父は自由な考えの持ち主だったが、母は長男家族と一緒に住むのが当たり前という考えだった。しかし私たちも結婚当初は親元を離れていた。

両親との同居が始まったのは私たち一家がアメリカから帰国してからである。弟妹はすでに家を出ていたので両親とわれわれ計七人の同居生活が始まった。1968年だからほぼ40年前になる。私が1979年、京都に単身赴任を始めた矢先に父が亡くなり、子ども3人もやがて家を出て行ったので、私が時々帰るとき以外は妻が母と二人で住んでおり、それが10年ほど続いた。

私が定年退職して神戸に戻り、震災後新築した隠居所で三人の生活が始まった。しかしそれを待っていたように母の体調が崩れだし、90歳を過ぎてから胃がんの手術を受けた。手術はうまくいって無事退院し、体調も取り戻してきたが、今度は胆石のため胆嚢を取り除く手術を受けた。いったんは元気を取り戻したものの次第に弱まってきて、入院、退院をくり返して、最後は自分の望み通り自宅で息を引き取った。

母が最初の手術を終えて退院してからか、あるメモを妻に渡していた。食事に対する注文で、お好きなものにしますから、と妻がいったことにたいする返答である。



便箋の台紙であろうか、一面に食べたいものを書き連ねている。油っ気はてんぷらだけ、何の変てつもないまさに年寄りの好みである。芋、たこ、なんきんはちゃんと顔を揃えている。なかには料理法までの注文もある。「以上 あまえて候」といったん結んでおきながら、また付け足しているのがいかにも食いしん坊の母らしい。と同時に母は母なりに我慢していたんだな、との思いが私の胸を締め付けた。それはこういうことである。

同居を始めたとき、母はまだ60歳前と若かったが、台所仕事は妻に譲ってしまった。妻にいわせると、私はそれ以来ずうっとおさんどん、なのであるが、台所の主は一人でよいと母が踏ん切ったのである。実権を譲り渡してからは一切妻の献立に従ったのだから、それはそれで大したものである。それまで朝食はご飯にみそ汁だったのが、トーストにコーヒになってしまったから、母にすれば革命に遭遇したようなものであったと思う。

母が年に一度主婦にカムバックするのはおせち料理の頃であった。棒だらを一週間ほど前から米のとぎ汁でもどすころから始まるものだから、何日にもわたるスケジュールを立てて、意気揚々と立ち働いていたようである。お蔭で孫である私の長男が棒だら大好きになってしまった。

父は『洋風』が苦にならなかった。もともとバタくさい料理が好みで、胃がんの手術で入院する前に、レストランにみなで出向き、血の滴るようなステーキで「最後の晩餐」をするぐらいだった。しかし育ち盛りの子どもを主体とする妻の料理は、母にはなかなかしっくりしなかったことだろうと思う。

でも母もなかなかの策略家であった。「もうピチピチしたいわしの出回る頃だろうね」、「潮干狩りの季節、よくあさりをとりに行ったね」、「嬉しい、梨が出て来だした」、「子どもの頃、落ち葉での焼き芋の美味しかったこと」という風に、旬の食べ物を季節に合わせて上手に話の中に織り込んでいく。それを聞くと買ってこないと悪いような気がして、とは妻の弁であった。

胃を三分の二も取ってしまうと、さすがに母も身体の方が大事、というより最後まで食事を自分の思いとおりに楽しみたいという気持ちになったのだろう。それがあのメモになったのだと思う。

母と妻は何とかいいながらも私には有難いことに和合してくれていた。「新明解」は和合を《互いの欠点を指摘しあったりなどしないで、うまくやっていくこと》と説明している。まさにその通りであったと思う。

考えてみればまったく赤の他人が一つ屋根の下に住む。若いときからだと力関係は姑が上位にある。息子の嫁を家風に合わすなんていえば古めかしいが、そのような意識が当然姑にあるだろう。若い嫁にすれば自分の意思を抑えて耐え難きを忍び、その試練をくぐり抜けなければならない。大変なストレスであろう。それを間近に見ているから、夫の親と同居しているとか、また年取った親をいろいろと世話をしているという女性を、私はそれだけで無条件に尊敬してしまうのである。

しかし堪え忍ぶのは嫁ばかりではない、姑の方も我慢すべき所を我慢することがあってこそお互いの関係がうまくいくのだ、ということに私も遅まきながらも思い当たったのである。明治生まれの女である母は私に何一つ不満めいたことを口にしたことがなかった。

入力ミスで払いすぎた電気代

2007-09-06 15:31:24 | Weblog
安倍内閣閣僚の「政治とカネ」にかかわる問題で、鴨下一郎環境相と上川陽子少子化担当相のなんとか収支報告書の誤りがまたもや浮かび上がった。両氏とも記載ミスだとのことである。早速修正したようであるが、捏造データ問題に敏感な元研究者の目から見ると、この修正過程は不透明そのもので、安倍首相がいう「政治資金を巡る問題をきちんと説明し、より透明に公表すること」からはほど遠い。

まずどのような誤りを犯してどのように訂正したのか、それを裏づけるデータ、たとえばお金の出入りを記録した預金通帳や出納簿などを示して、ミスの発生とその訂正の過程を明らかに示すべきである。それが「きちんと説明」したことになる。ただ記載ミスでした、訂正しました、だけで国民が納得すると思ったら大間違いである。両氏がそのように説明責任を果たす先駆けとなって欲しいものである。

記載ミスといえば、そのせいでかって大損を蒙りかけたことがある。といっても個人の話ではなく大学の教室予算が、である。大学では毎年予算会議なるものを開いて、教室に割り当てられる校費を検討することになっている。ある年、私が事務方から出された書類を見ていると、どうも解せない数字があった。1年間の使用実績に基づく電気代が学部(基礎医学分野)の全教室のなかで一番多いのである。少数精鋭をほこるわが教室は、仕事の質に関しては他教室に決して劣るものではない。毎晩遅くまで仕事をしていて、私が帰宅する頃は他の建物の灯りも結構消えているのであった。ところが夜通し中、ほとんど灯りが消えない研究室もなかにはある。常時何十人ものスタッフをかかえ、10月が近づくと教室中がソワソワするのが年中行事というような教室である。その圧倒的な物量作戦を誇るいくつかの教室に較べると、いかにもこじんまりしたわが教室の電気使用量が圧倒的に多いとはどうも解せない。そこで事務方に調べさせることにした。

プリントアウトされた電気使用量は確かにわが教室がダントツである。ところが、である。調べてみるとそこに記録された電気メーターの値が、教室から提出した書類に記された数字と大きく違っていることが分かった。電気メータの読みをパソコンに入力する際に間違えていたのである。まさに単純な入力ミスが原因だった。しかしその単純な入力ミスのせいでわが研究室は二百数十万円余分に徴収され、また関電にその分余計に支払っていたのである。

もちろんこの余分に払った分は実際に予算が執行される段階で返して貰ったので、お金のやりくりにどのようなマジックを事務方が使ったのは深く追求しなかった。話は飛ぶが年金問題のいろんなトラブルが国民の不利にならないよう、政府にぜひ大マジックを演じて欲しいものである。

縁は異なものの話からCOEプログラムへ

2007-09-04 13:39:24 | 学問・教育・研究
ガレージの棚に突っ込んでいた本を整理していると、古ぼけた本が目についた。ドイツ語で書かれた無機化学の教科書である。手にとって眺めているとこの本にまつわるいくつかのことが甦ってきた。

私が大学に入学したのは昭和28年(1953)で選んだのは理学部だったが、入学してからの2年間は教養課程ということで教養科目などは学部に関係なく皆一緒に受けていたし、物理、化学などの理系の講義も自分で教師を自由に選べたので、医学部、薬学部、工学部の連中と一緒になることが多かった。たとえば有機化学なども何人かの教師が開講していて、私は評判のよい薬学部から出講のKT助教授の講義を受けたのである。私が教養課程で一番感銘を受けた講義で、やる気満々の先生の学問にかける情熱が講義を通して伝わってきた。ちなみにこのKT先生は後に東北大学教授を経て晩年は星薬科大学学長を務められた。

KT先生の熱気に煽られてか、この有機化学のクラスで知り合った仲間四五人で、当時出版されたばかりの(と思っているのであるが)井本稔著「有機電子論」をテキストに勉強会を始めたのである。姓が同じYさんが二人おり、一人は医学部でもう一人は工学部だった。二人とも見るからに賢そうで口を開けば確かに頭のいいことがよく分かり、私は一生懸命背伸びをして話に加わったものである。

もちろん同じ理学部でよく顔を合わせる連中とは交流も生まれ、親しい友人も出来た。その内の一人MKさんは大学院修士課程を修了してからM新聞社に入社し、科学記者としてのユニークな経歴を切り開き、日本における科学ジャーナリストの草分けとなった人である。多くの著書、翻訳書がある。

UMさんはなかなか思索的な人で、私のイメージにある旧制高校生のような雰囲気を漂わせていた。彼に刺激されて手を伸ばした教養主義的な本を読んでは、顔を合わせるとよく議論したものである。UMさん、MKさんはまともに2年間の教養課程を終えて理学部化学科に進学したが、私はとある事情から1年留年したので、彼らと再会したのは一年後、私が理学部に進学してからである。

その再会したUMさんから入手したのがこの無機化学の教科書である。彼は本に関する情報にとても詳しくて、無機化学ならこれを読むべし、と私に薦めてくれたのである。



今この本を見ると、22、23版への序文を著者の一人Egon Wibergが1942年11月にミュンヘンで記しており、34、35版への序言は1954年11月、同じくミュンヘンでしたためている。第二次大戦の最中から戦後にかけて版を重ねていたことになる。そしてこの34、35版がベルリンで出版されたのが1955年となっているから、UMさんは出版されたばかりの本を手に入れていたことになる。ドイツにいる知り合いに送って貰ったとか聞いたような気がする。この本を彼から格安値段で譲り受けたのである。私はこの本を手に持っているだけで、650頁分の知識が頭の中に流れ込むような気分になったものである。

中身は化学だからドイツ語もなんとなく分かってくる。飛ばし読みながらでもこの本で勉強したおかげで、大学院入試の時は特に勉強しなくてもドイツ語をクリアすることができた。UMさんは卒業後大手の化学繊維メーカーに就職した。その後、同じ会社に就職した私の弟が彼にお世話になる偶然もあったが、いつしか音信は途絶えてしまった。

年月が流れた。

1970年代、私は阪大理学部の助手になっていた。有難いことに科学研究費の重点領域だったと思うが、京大医学部のHO先生が班長である研究班に班員として加えていただき、班会議のために京大医学部まで出かけた。そこで教養時代の勉強仲間、医学部のYSさんに出会ったのである。YSさんは臨床ではなく基礎医学を選び、生化学のHO先生の門を叩き、HO先生が阪大から京大に移られたときに同行したのである。やがて助教授に昇進し研究班の事務方を務めたYSさんにはいろいろとお世話になった。そしてどういう運命のいたずらか私が京大に移るに当たり、YSさんにもアドバイスを頂いたのである。赴任の挨拶にうかがった時、HO先生は学部長になっておられた。

京都に移って何年か経ったある日、講義を終えて後片付けをしていると男子学生が私の所にやってきた。「失礼ですが、先生は阪大のご出身ですか」と尋ねた。そうだ、と答えると「UMを覚えておられますか」と重ねて聞く。もちろん私はUMさんのことをすぐに思い出した。「私の父です」と彼がいう。そうしたことで、かれこれ30年ぶりにUMさんと再会し旧交を温めたのである。

縁は異なものと思い出した話はこれでお終いなのであるが、ことのついでに「出来る人は出来る」で締めくくりたい。というのも息子のU君の話で感じることがあったからである。

その頃入試制度が変わって、東大と京大の医学部を両方受験することが可能であった。当然両方とも合格する受験生が何人も出て来る。合格者がどちらを選ぶか、その去就が注目されて、東大を蹴って京大を選ぶ学生が数人出たきたことが世間でも一時話題になった。このU君がなんとその一人だったのである。

U君の話などを聞いて思ったのは、「出来る人は出来る」というごく当たり前のことなのである。受験生を持つ親には少々むかつく話かもしれないが、出来る人は世間で難関といわれるようなところでもスイスイと突破してしまう。通って当たり前なのである。そういう人が同一年齢人口に一定の割合で必ず存在するのである。

同じことが研究者の卵にも云える。毎年研究生活に足を踏み入れてくる若者のなかに、必ず一定の割合で将来大成する人材が存在する。優れた研究指導者なら、これは見所があると思う若者に必ず出会うはずである。そういう研究者のもとには自然と有能な若者が集まってくるからである。能力を見抜いたら指導者のすることはただ一つ、その若者に思う存分力を振るわせることである。独創的な科学はただの凡才からは生まれない。余計な口出しの代わりに必要な研究費をどんどん注ぎ込む。各種のCOEプログラムのリーダーにはそれが可能であろう。そういう風にお金が使われるのなら、私のCOEプログラム批判の矛先も少しは鈍ることだろう。


相撲は国技にあらず?

2007-09-03 20:01:23 | Weblog
相撲の歴史をほとんど知らないままに朝青龍問題 日本相撲協会は『皇民化教育』を廃すべしを書いたが、私のうろ覚えの知識をもう一度はっきりさせるために三田村鳶魚著・朝倉治彦編「相撲の話」(中公文庫、鳶魚江戸文庫4)に目を通した。すると思いがけない話にぶつかったのである。



この本の巻尾に山本博文氏が「相撲取りの生活」という一文を寄せており、そのなかに以下の文章があった。肝腎なところはもともとは新田一郎氏の文章のようであり、少々長いが引用させていただく。

《 相撲が「国技」になったという事実はない。それではなぜ現在相撲が「国技」だと称されているのであろうか。
 「国技」としての相撲は、明治四十二年(1909》五月、両国元町に落成した相撲の常設館が開館したとき、「国技館」と命名されたことに始まる。名称は直前まで決まらず、開館式のための小説家江見水蔭の起草した披露文に「相撲は日本の国技なり」という言葉があり、年寄尾車(をぐるま)がそれに着目して「国技館」の名称を提案したという(新田一郎『相撲の歴史』山川出版社)。
 つまり、相撲が「国技」だというのは、全くの美称であり、僭称でもあるのである。
 しかし、昭和天皇が相撲好きで、(中略)中日に国技館に赴き、相撲を見ることが慣例になっていた。このことが、相撲を「国技」と称しても誰も不思議に思わないという思考構造を生んだのだと思われる。(中略)
 それにしても「国技館」という名称に釣られて、無責任に相撲を国技だと称するマスコミは、少し問題があるのではなかろうか。このような架空の言説が、実体を生むことになる。(後略)》

いやはや、私は上のエントリーで《国技がどれほど実質的な意味を持つのか私は知らないが》と述べたが、もともと実質はなかったのである。それで思った、日本相撲協会が自体がその実体のない「国技」の呪縛にとらわれているのではなかろうか、と。これはこれでいろいろといらざる問題を引きおこすことになりそうである、いや、起こしているのかもしれない。