日々是好日

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相撲は国技にあらず?

2007-09-03 20:01:23 | Weblog
相撲の歴史をほとんど知らないままに朝青龍問題 日本相撲協会は『皇民化教育』を廃すべしを書いたが、私のうろ覚えの知識をもう一度はっきりさせるために三田村鳶魚著・朝倉治彦編「相撲の話」(中公文庫、鳶魚江戸文庫4)に目を通した。すると思いがけない話にぶつかったのである。



この本の巻尾に山本博文氏が「相撲取りの生活」という一文を寄せており、そのなかに以下の文章があった。肝腎なところはもともとは新田一郎氏の文章のようであり、少々長いが引用させていただく。

《 相撲が「国技」になったという事実はない。それではなぜ現在相撲が「国技」だと称されているのであろうか。
 「国技」としての相撲は、明治四十二年(1909》五月、両国元町に落成した相撲の常設館が開館したとき、「国技館」と命名されたことに始まる。名称は直前まで決まらず、開館式のための小説家江見水蔭の起草した披露文に「相撲は日本の国技なり」という言葉があり、年寄尾車(をぐるま)がそれに着目して「国技館」の名称を提案したという(新田一郎『相撲の歴史』山川出版社)。
 つまり、相撲が「国技」だというのは、全くの美称であり、僭称でもあるのである。
 しかし、昭和天皇が相撲好きで、(中略)中日に国技館に赴き、相撲を見ることが慣例になっていた。このことが、相撲を「国技」と称しても誰も不思議に思わないという思考構造を生んだのだと思われる。(中略)
 それにしても「国技館」という名称に釣られて、無責任に相撲を国技だと称するマスコミは、少し問題があるのではなかろうか。このような架空の言説が、実体を生むことになる。(後略)》

いやはや、私は上のエントリーで《国技がどれほど実質的な意味を持つのか私は知らないが》と述べたが、もともと実質はなかったのである。それで思った、日本相撲協会が自体がその実体のない「国技」の呪縛にとらわれているのではなかろうか、と。これはこれでいろいろといらざる問題を引きおこすことになりそうである、いや、起こしているのかもしれない。

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