一昨日、私がブログでも取り上げた大阪大学の不正論文事件で注目を浴びているのが、アメリカの代表的な生物化学専門誌「ザ・ジャーナル・オブ・バイオロジカル・ケミストリー」(The Journal of Biological Chemistry、以下JBCと略記する)である。実は私はこのジャーナルにある思い入れがある。
若い人が来てくれなくて、と多分私がこぼしていたのだろうか、ミッチェル先生がこう云われた。「○○○(私への呼びかけ)、こういうことわざを知っているかい?何人もの人間が頑張っても、赤ん坊が生まれるには九ヶ月はかかる、と云うんだよ」
「研究というものはもともと共同作業でやるものではなくて、一人の人間の営みなんだよ。自分でやってごらん」との励ましと私は受け取った。ミッチェル先生こそその生き方を貫いた方であったので、その一言に盤石の重みがあった。
ミッチェル先生は1978年にノーベル化学賞を受賞された。学問上の業績もさることながら、異色の研究者として注目を集めたのがその研究環境であった。『科学朝日』1984年8月号が「ノーベル賞の発想 世界の受賞者インタビュー」という記事を載せているので、上の写真を含めてそれを引用させていただく。
《ミッチェルは「反骨の人」といわれる。このイギリスの片田舎、満足な設備もないところで、何人もの世界の大権威を相手に一人で戦い、ついに勝利を収めた。その結果、1978年のノーベル化学賞を受けた。競争相手の権威者たちが、のどから手が出るほど欲しがっていたノーベル賞を、である。巨大化する科学の世界に、ルネッサンス時代の科学者を見る思いがする。今時こんなスタイルで、ノーベル賞を取る人物が出たということを、ほとんど信じられない。》
研究は一人でするもの、まさにそうなんであるが、大学なんぞに勤めていると、雑用に追い回されて自分の時間がなくなってしまう(と皆さんが仰る)。ただ私には自分でも自覚している『狷介孤高』なる習癖があり、それを武器にミッチェル先生に押されるようなかたちで、あらためて独り立ちにチャレンジしたのである。
私の意図したことは極めて簡単なこと、自分のやりたい研究を、自分の思いのままに一人で成し遂げて、その成果を世界の一流学術誌に誰一人憚ることなく自分の名前で発表しようということであった。
私には暖めている一つのアイディアがあった。私が大学院生時代から付き合ってきた酵素は、空気中の酸素を水にかえる働きを持っている。化学の言葉でいえば酸素を水に還元するのであるが、酸素が一足飛びに水になるのではない。頭の中で考えると、酸素が半分還元された過酸化水素の状態を通ることになる。もしそうなら、酸素の代わりに過酸化水素を加えてもこの酵素が働くのではないかと思ったのである。そのことを実験で証明することにした。
われわれが生きていくためになくてはならない酸素は、この地球上に充ち満ちている。その酸素のない状態で実験をしなければならない。至難の業である。さらに難しい問題がある。過酸化水素自体、触媒があると容易に分解されて酸素が生じるから、過酸化水素を加えているつもりが実は酸素を加えていたということにもなりかねない。
研究とはそういう難問題を解決してこそ前進するものである。私はそうした問題を一つずつ解決して、この酵素が確かに過酸化水素でも正常に働くことを証明することができた。この酵素の本来の働きとは異なる新しい酵素作用の発見である。発見とは人類の歴史始まって以来、誰もが気付かなかったことを見出すことで、この喜びと興奮を人に先駆けて味わえるのが研究者冥利というものだ
私は完成した研究論文の発表の舞台としてJBCを選んだ。JBCに共著論文はすでに何編か発表しているが、名実共に私一人の仕事として発表するのは初めてのことである。
JBCは研究論文を二種類に分類して掲載する。一つは一般論文であるRegular Papersで、もう一つは速報、Accelerated Publicationsである。一般論文とは異なる性質のもので、JBCは次のように説明している。
「Accelerated Publications are intended to present new information of exceptional novelty, importance and interest to the broad readership of the JOURNAL.」
専門分野の如何を問わず、このジャーナルに目を通す人にとって、格別に新しい知見を含んでいる重要かつ興味のあると思われる論文というわけである。いわば特別席である。たとえば最新号の2006年9月15日の電子版では、掲載されている研究論文90編のうちAccelerated Publicationsはただの2編に過ぎない。われわれの頃はCommunicationsといわれていた。このCommunicationsとして私は投稿したのである。
期待通りというか、私の論文は直ちに受理されて1982年8月25日号のJBCに掲載された。今このブログを書く流れで、改めてこの当時の自分の年齢を計算してみると、なんと驚くなかれ48歳にしての独り立ちであった。しかしこのチャレンジは私に大きな自信と勇気を与えてくれた。そして研究の真髄、その醍醐味を遺憾なく味わう喜びが私を大学院生時代に連れ戻してくれたのである。もう誰も何事も私を引き留めることは出来ない。♪ ドウニモトマラナイ・・・、とばかりに、定年を迎えるまで、多くの共同研究者との共著論文に加えて、一、二年に一報は単独名の研究論文を発表し続けてきた。まさに至福といえよう。
私はこの研究を更に発展させる研究テーマを一人の大学院生に与えた。私は酵素反応を溶液系で観測したのであるが、その酵素をリポソームといういわば人工細胞に埋め込み、ミッチェル先生のノーベル賞に繋がったある反応が起こるかどうかを確かめさせたのである。実験条件や細かい手技にいたるまで、絶えず議論を私と交わすのが常であったが、この院生は実験、データの収集、解析の全てをまったく独力で行った。そしてものの見事に、私の発見したあたらしい酵素作用が、ミッチェル先生の提唱し実証した反応を引き起こすことを証明したのである。
私はこの論文もJBCのCommunicationsに投稿した。院生がファーストオーサー、私がラストオーサーの連名論文である。1986年3月25日号に掲載された。院生には博士論文となり、私にはミッチェル先生への恩返しのしるしともなった。