日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

非正規教員 有期雇用 非常勤 雇い止め 何もしないというボランティア活動

2011-01-19 16:02:18 | 学問・教育・研究
昨日だったか一昨日だったか(がもう思い出せないが)、テレビの番組で大学の非正規教員の話を取り上げていた。「非正規教員」という言葉自体も恐らく私には聞き始めで、学生便覧などでは非常勤講師として紹介されるのであろうが、いくら社会的に通用しているとしても「非正規教員」とはおどろおどろしい言葉である。番組では3年の契約期限が切れようとしている京都精華大学の教員が紹介されていた。契約期限が切れて解雇されることを「雇い止め」ということも知った。この方の場合は3年契約だから、同じ「有期雇用」でも普通よく聞く「非常勤」の1年契約にくらべるとやや長期になるが、それでも不安定な雇用形態であることは間違い無い。

私が現役時代に経験した「非常勤」といえば本務の傍ら他大学や他学部で講義することで、年に一回、集中講義の形式で行うことが多く、「非常勤講師」の肩書きで大学職員録に記載されることもあった。また逆に専門分野の講義を大学と限らず、病院勤務の医師とか研究所勤務の研究者、さらには政府機関のたとえば厚生技官などに「非常勤講師」としてお願いするのが常であった。いずれにせよ「非常勤」とはいうものの本務があってのことだから、ここで問題になっているそれ自体が本務である「非常勤」とはまったく異なった性格のものであった。

教育職とは異なり事務職には以前からも「非常勤」があり、国立大学でも長年にわたる定員削減の影響でますます増加の傾向にり、不安定な雇用形態であることから実際に働く人にとっては大きな問題になっていた。同じような問題が「非正規教員」にもあることはかねてから耳にしていたが、その実態に触れたのは私が定年退職後に地元の私大で非常勤講師を務めた時である。この時の勤務形態は毎週決められた曜日・時限に年間を通じて講義することで、時間給に基づくものの月給として支払われていた。夏休みは講義がなくても月給が入ってきたのである。一学年の終わりが近づくと、契約更新について、「先生はもうされましたか」のようなやり取りが若い非常勤講師の間で交わされているのに気付いた。教務からお声がかからなかったら、それが「雇い止め」になるからである。傍から気軽に口出し出来る雰囲気ではなかった。

大学での教育への「非正規教員」の寄与が3割から4割になると番組では報じていた。教職を目指す大学院修了者が増えれば増えるほど人集めは楽になり、それが「非正規教員」の雇用環境を厳しくする。調べてみると分かることだろうが、私大のほとんどはこのような「非正規教員」があってこそ存続が可能になっているのではなかろうか。それぞれ大学が高邁な建学の精神を謳っているのであろうが、肝腎の教育を担う教員の処遇が「間に合わせ」では話にならない。基本的には全員「正規教員」であるべきだと私は思う。かっての国立大学がそうであったように。教育の質という面で考えると「非正規教員」が「正規教員」より劣っていることにはならないだろう。多くの場合、よりよい待遇を目指す「非正規教員」の方がより熱心に講義などに取り組むだろうと思われるからである。だから問われるべきは「非正規教員」の質よりは大学の経営方針ということになる。

大学が教師として定年退職者を採るかそれとも若い世代を採るのか、大学経営の観点からさまざまな得失が考えられるであろうが、一つはっきりしていることは定年退職者がその職に就くと、その分若者のポストが失われるということであろう。ノーベル賞を始めとして大きな賞の受賞者を定年後再び教授として迎えると、その大学の広告塔となるなど宣伝効果は一目瞭然であるが、これは別格としても確かに今の定年退職者は若い層よりもエネルギッシュで、彼らを押しのけてでも社会的に活動しようとすれば実力においても体力においても決して引けを取らないであろう。しかし、である。人口が減少し経済が縮小していくこれからの二十一世紀に、年配者の発想がこれまでと同じであってよいはずがなく、率先して発想の転換を計るべきなのである。自分の能力にいくら自信があるにせよ、大学の定年を終えたら後は若い世代に一切をすっぱり引き渡す潔さがきわめて大切で、それが若い世代に飛躍的な成長の場を与えることを認識すべきなのである。このような考えをこれまでも「総理大臣終えた後は政界引退を」 versus 「教授終えた後は・・・」など、折に触れて述べてきたが、その根底に私の次のような考えがある。

現役時代の研究システムを可能な限りそのまま定年後も維持したいというのは、考えようによれば節度なき人生態度である。定年は組織に属する人間にとっては避けられない運命である。いつかはその時が来るのが自明の理なのである。その間、全力投球して後に悔いを残さないようにする、それでいいではないか。

定年後まで若い世代と張り合い、ひいては彼らの職を奪うというような独りよがりを自覚出来るまで、人格を陶冶してはいかがだろう。考えようでは年配者が何もしないということこそ実に貴重なボランティア活動なのである。若い世代に存分に活躍出来る場を与えるからである。そういえば「無為にして化す」という老子の言葉を思い出したが、ここに持ち出すのは少々牽強付会だろうか。




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