日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

井上ひさしさんが亡くなった

2010-04-11 18:56:10 | Weblog
井上ひさしさんが体調を崩して療養中という記事を昨年の暮れ辺りに目にして気がかりを覚えたが、この9日、肺がんのために死去されたとのことである。

井上さんの作品を以前にドイツ語の歌「Die Beiden Grenadiere] ドイツ語の詩「ダス トモネ」で取り上げたことがある。といっても小説「吉里吉里人」に出てくるドイツ語?の詩にまつわる話で、まともに小説を論じたわけではない。私に思いで深い作品は伊能忠敬を主人公にした歴史小説「四千万歩の男」で、活字の量の大きさに圧倒されると同時にエネルギーを分けて貰ったような気がしたものである。

朝日新聞の記事に次のようなくだりがあった。

 膨大な資料を渉猟後、ユニークな発想で創作するために筆が遅く、「遅筆堂」を自認。戯曲が完成せず公演の開幕が遅れることもたびたびあった。87年、故郷の川西町に蔵書を寄贈して「遅筆堂文庫」が設立された。

私も仕事の上では札付きの遅筆で、論文から報告書、手紙に至るまで、もろもろの文書がなかなか出来上がらずにいろいろと迷惑をかけてきたが、井上さんの遅筆ほどは迷惑をかけていないだろう、とわざわざ井上さんと比べて心の中で言い訳をすることがままあった。独りよがりの変な仲間意識であったが、それよりも井上さんがが昭和9(1934)年生まれ、それも誕生日がかなり近いことを知ったときに親近感が一挙に高まったものである。

昭和9(1934)年生まれ(早生まれは別として)は全員が小学校に入学をしたこともなく、もちろん卒業したこともないという歴史的にもきわめて特異な世代なのである。昭和16(1941)年4月1日からそれまでの尋常小学校が国民学校となり、われわれは国民学校入学第一期生となった。同年12月8日に大東亜戦争が勃発し、国民学校5年生であった昭和20年8月15日に敗戦となった。昭和22(1947)年3月に国民学校を卒業すると、4月1日からは国民学校が再び小学校に戻ったのである。そのようなユニークな体験を経たわれわれの心情について、つい最近も「サンデープロジェクト」の田原総一郎さん お疲れ様でしたで述べたばかりであるので、ここでは繰り返さない。井上ひさしさんには「東京セブンローズ」という作品があって、戦時下と敗戦後の庶民の生活がまさに精緻に活写されている。このような生活をわたしたちが共有していたので、精神的連帯感をとくに強く感じるのは私だけではあるまいと思う。


井上さんの最後を時事ドットコムは次のように伝える。

 井上さんは昨年10月に肺がんが見つかって以来、抗がん剤投与を受けながら次の作品の執筆を準備していた。体力が落ち、呼吸がつらそうだったという。3月半ばに入院、9日朝にいったん帰宅したが、同日夕に容体が急変。「自宅に戻って安心したのか、うとうとしているような感じで、眠るような最期だった」。

手術ではなく抗がん剤というのが井上さんの潔い選択であったのだろう。あの激動の時代をよくぞこの歳まで生きてきたという、ある意味での満足感があってのことではなかろうか。しかし残されたものとして、強い連帯感に繋がれた仲間が一人ひとりとこの世から姿を消していくことにえもいわれぬ寂しさを覚える。


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