今年も関西三坂会が京都駅近くのホテルで昨日開かれて49名が参集した。昨年の31名にくらべると大幅増である。いつものように「運動会のうた」の斉唱で会が始まった。私が三坂会の存在を知って始めて出た集まりでこの歌が歌われた時は、半世紀以上も歌うことはもちろん思い出すこともなかった歌なのに、歌い始めると節がすらすらと出てきたのに驚いたものである。開会と閉会の時にそれぞれ二番まで歌うが、開会の一番と閉会の二番をは次のような歌詞である。
鉄石のごと 身もかたく
心も強き 国たみは
とよさかのぼる 日の御旗
かがやく国の 宝なり
我等は 日本男児なり
われらは御くにの おみななり
日ごろ鍛えし このからだ
きょうぞ試さん いざやいざ
学ばん時も かくのごと
遊ばん時も かくのごと
元気はわれらの いのちなり
心やすかれ ちちははよ
家をも興し 身をもたて
国をまもるは このからだ
鉄石よりも いやかたく
鍛え鍛えん たゆみなく
一番の「我等は 日本男児なり」は男子のみが、「われらは御(み)くにの おみななり」は女子のみが歌う。男女対等のようだが考えてみればこの時代は女性に参政権が無かったのだな、とあらためて時の経過を実感する。二番の歌詞などもどれほど実感をもって歌っていたのか今となっては思い出せないが、われわれ全員がそれを励みとする純真無垢な少国民であったことは間違いなかろう。今の子供に歌ってきかせたらどのような反応が戻ってくるのか試してみたくなる。2005年10月に東京で開かれた最後の全国大会では東フィルのブラスメンバーによる演奏でこの歌を歌ったが、その時に録音しておかなかったことが今でも悔やまれる。どなたか録音テープをお持ちではないだろうか。
ブログを書いておられるのでは、と一人の方に声をかけられた。その方の弟さんが昨年の関西三坂会のブログ記事のコピーを送ってこられたそうである。在五の出席者は私一人なのですぐに分かったとのことである。去年旧三坂小学校周辺を訪れた際の写真をいろいろと見せていただいた。その中には校舎の横に建てられた大きな体育館があった。上の記事に掲載したGoogle写真にも写っていた大きな青い屋根の正体である。ここは木造の便所があったところで、厳冬ともなると排泄物が凍りその上にまた堆くなって石筍のように便器から頭をもたげ上げるようになる。自分では使ったこともないので何故そのようなことを知っているかと言えば、その片付けにクラスが多分動員されたからだと思う。錫杖のような鉄棒でコツンコツンと山を打ち砕き、ショベルですくい上げて肥たごに移したのだろう。そんなこをとふと思い出してつい興奮気味にとくとくと話しをしたものだから、「お食事中ですのに」と同じテーブルの女性にたしなめられてやっと我に返る始末であった。私のテーブルには四年上の女性が四人に男性が一人、二年上の男性が二人で皆さんが私のかっての上級生だったのでつい羽目を外してしまった。でも頷いてくださる女性もいたので、私の記憶の肝心なところは間違っていなかったようである。
隣には昭和20年卒業の方がおられた。龍山中学に入学したものの勤労奉仕で明け暮れしている間に敗戦を迎えたとのことだった。顔の色つやのよい健康的な方で、ウイスキーの水割りを次から次へとお変わりをされる。数えた訳じゃないけれど10杯ではきかないと思う。まさに日本男児ここにありである。とても洒脱な方で、年長者ならではの記憶のはっきりとしたお話をいろいろと聞かせていただいた。引き揚船で11月21日に博多に戻ってきたと仰る。アレッと思って船名を尋ねるとこがね丸との返事が戻ってきた。在朝日本人の回想 引き揚げ船「こがね丸」でにかって書いたように、私の引き揚げ船もこがね丸だったのである。11月下旬に博多に辿り着いたとの記憶はかすかにあったが日にちまでは覚えていなかった。釜山で一週間は乗船待機したので一ヶ月にこがね丸が運航された回数はそれほど多くは無かったと思うと、この先輩とは同じ船で引き揚げてきた可能性がきわめて高い。そこでこの日を私の博多港への帰還日とすることに決めた。
来年もまた新しい発見があるかも知れない。