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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

さくら丸で渡米(1) 出発まで

2005-03-30 16:49:10 | 海外旅行・海外生活
1966年の夏、アメリカ東海岸にあるエール大学に留学することが決まり、渡米することになった。その当時私の所属する大学の研究室では、最初の1年は現職扱いで、2年目は休職扱いで海外留学2年が慣例的に認められていたのである。留学と云っても受け入れ先の教授の科学研究費に認められている人件費で雇用されるのであって、Research Associateなる職種で研究に従事するのであった。森鴎外のように国費で留学させて貰うのではなく、自前の出稼ぎ的側面があった。

太平洋を船で渡りアメリカ大陸を汽車で横断するという夢をかねてから暖めていた私は、またとないチャンスとばかりに船の便を探して商船三井の『さくら丸』を見つけたのである。アメリカでの契約は9月からだったので確か7月の終わり頃に神戸を出帆するさくら丸は時期的に最適であった。

私の記憶では、その頃のアメリカ航路の客船として有名だったのは、アメリカの船会社「アメリカン・プレジデント・ラインズ」 のプレジデント・クリーブランド号やプレジデント・ウィルソン号であった。そして大阪商船の「ぶらじる丸」に「あるぜんちな丸」は南米移民船として建造されたが、もちろんアメリカ航路にも使われていた。

一方1962年に見本市船として建造されたのが「さくら丸」で、輸出振興目的で世界各国に出かけて産業巡行見本市の動く展示場となっていた。



いろいろな日本製品を陳列して諸外国に寄港しては、各国の人達に見ていただくのである。要するにメイド・イン・ジャパン製品の売り込み船、日本はまだそのような時代だったのである。

見本市船として使われていない間は、商船三井が移民船として南米まで運航していた。この「さくら丸」が時期的にはちょうど都合がいいのである。神戸の海岸通りにある商船三井のビルに出向き、いろいろと説明を聞いた上乗船予約をした。

何をどう考えてそうなったのか、今では記憶が定かでない。BRIDGE DECK、すなわち船橋楼甲板にある一等船客室を海側と内側の二部屋を続きで予約した。夫婦に子供二人で一部屋は窮屈だろうとその時思ってのであろうが、考えてみたら贅沢な話ではあった。デッキプランが手元に残っているが、117号室(海)と127号室(内)に斜線を入れているのでこの二部屋を占めたのであろう。右舷にあった。

それぞれの部屋にベッドが二台にソファー、洗面台にクローゼットがあり、シャワー室が二部屋を繋ぐ形で設けられていた。それぞれの部屋から入れるように扉は2カ所にあるが、一方が使っているときは他方をロックするようになっていた。もちろんわが家族にとってはこれが通路になった。

私は日記をつける習性もなく、記録をとり続けるほど几帳面でもないので日時のことは分からない。手元に残した品々が当時の記憶を甦らせる手助けになるのであるが、この品々もかなりの部分がさる阪神大震災以来未だに行方不明である。従って神戸を出帆した日も不明であるが、航行中に娘の8月8日の誕生日を船で祝っていただいたことははっきりと覚えているので、だいたい7月末かな、と見当をつけたのである。ところが私と同じ「さくら丸」に乗船された方のウエブサイトを探し当てることが出来た(http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=122)。

そこに《1966年9月サントス着のさくら丸120名以上の移住者を乗せて来たさくら丸の40年目の同船者会を計画 『さくら丸 私達の40年』を計画したい》との一文があった。同じ船でジアデマ市に渡りそこで定住された方が、さくら丸の同船者会の計画を呼びかけられているのである。呼びかけた方の写真が掲載されているが、40年の歳月の重みがあった。

1966年の前半に大きな航空事故が相次いだ。2月4日には全日空ボーイング727型機が羽田空港着陸直前に東京湾に墜落して、133人死亡という当時として世界航空史上最大の遭難を引き起こした。3月4日にはカナダ航空DC8型機が濃霧で羽田空港防潮堤に激突炎上して、64人の死者を出した。さらに翌3月5日にはBOACボーイング707型機が富士山付近で空中分解し、124人が全員死亡したのである。

このように航空事故が相次いだものだから、私が船で渡米するというとその慎重さを変に感心されたり、『こわがり』を揶揄する友人もいた。しかし私の動機は航空機事故とは一切関係なく、敗戦後引き揚げ船こがね丸で朝鮮から博多の港に戻ってきたときの思い出にあったのである。  続く



アメリカ生活(2) 美味しかったアメリカの牛肉

2005-03-28 12:19:06 | 海外旅行・海外生活

1966年の夏の終わりに一家で渡米して東海岸のNew Havenの街に住むことになった。George Streetの家である。
右隣が大家さんの家で左隣はお婆さんが住んでいた。



裏庭の垣根越しにはじめてお目にかかり声を交わしたのがきっかけで、日中子供を抱えて家にいる妻にはあれこれとアドバイスしてくれたそうである。

落ち着いて間もない頃にハーロインの時期にさしかかって、子供が次から次と大勢押し寄せてくるから絶対にドアを開けないように、とお婆さんが教えてくれたそうである。もっともわれわれミーハー夫婦は何でも経験したい方だから、妻は逆に子供たちにどうすればいいのかと教えて貰い、キャンディーなどのお菓子を買ってきて袋に詰め、子供たちの襲来を待ち受けたことであった。このお婆さんはアイルランド出身、息子さんが日本軍相手の戦争で戦死したことを何かの折りに知ったが、われわれに対しては暖かであった人柄が記憶に残っている。

わが家は表側に居間がありそれに続いてダイニング、そして裏庭に面する台所があった。



トップの写真はその台所のテーブルに広げたある日の食料品スーパーでの買い物である。毎週土曜日が家族4人半分の食料仕入れデーであった。欲しいものが目につけば値段のことを気にせずにカートにボンボン放り込めばよかった。それでも一回の買い物で50ドルを超えることは滅多になかったように思う。

かれこれ40年ほど前の時代である。まだ日本での生活は貧しかった。アメリカから給料を出して貰ったお陰で一挙に『アメリカ映画』の生活に飛び込んだことになる。大きな肉の塊、ステーキ肉のパックにただただ圧倒された。ここぞとばかりあらゆる肉料理にチャレンジして『本場』の肉の美味しさを堪能したのである。

肉に突き刺す温度計で肉塊の温度をモニターしながらオーブンで焼き上げたローストビーフの芸術的な出来上がりに、われながらうっとりとした。塩とにんにくをすり込んだだけの分厚いステーキのジューシーなまさに『肉の味』にひとりでにほっぺたがほころびた。

その頃、アメリカのスーパーですき焼き用のスライス肉は置いていなかった。どうしたか。ほどほどの大きさの塊を一旦冷凍してから解凍して、包丁の刃が通るようになると薄くスライスしていくのである。それぞれの料理に合った肉を探し当てるのがまた楽しかった。

2年余りの滞米生活を終えて日本に帰ってきた。あれほど慣れ親しんできた牛肉のなんと高価なこと。わが家の肉料理はハンバーグオンリー、ステーキはもちろんすき焼きですら特別料理になってしまった。比較的安い輸入肉が市場に姿を現すようになってわが家にステーキが再登場する頃には、子供たちはもう家には居なかった。その償いでもないが、たまに息子たちが家に顔を見せるときには、必ず挽肉ではない肉料理でもてなすことになっている。

哲学者の道への道(1)

2004-10-15 15:55:57 | 海外旅行・海外生活
別に思索するためではないが、京都に住んでいた頃「哲学の道」を四季折々よく散策した。小間物屋風の土産物店などをひやかすのも面白いし、時には床几に腰を下ろして甘酒、おぜんざいを味わうのもいい。「マクベス」の冒頭に登場する魔女かとおぼしき老婆が注文を聞きに来る廃屋風のカフェーに立ち寄るのも一興である。

今は銀閣寺町から若王子町にいたる疎水沿いの道が「哲学の道」として知られているが、もともとは疎水の東の山際の道が、ハイデルベルグにある「哲学者の道」と地形が似ているためにそう呼ばれた、との説もあるらしい。

今回のドイツ旅行で目指した場所の一つがこの「哲学者の道」であった。ハイデルベルグにはおよそ30年前に一度訪れたことがあったが、その時は古城を訪れ街をぶらついたただけで、古城からネッカー川を挟んだ対岸にあるこの場所に行きそびれたからである。(理由はまたおいおいと述べる)

フランクフルトからジャーマンレイルパスを利用してハイデルベルグに到着、徒歩でまず古城に向かった。行き当たりばったりに街を通り抜け、川辺に出たり、マルクト広場にたどり着いてから古城に登った。私には再訪になるが、妻が初めてだったのでサービスをした次第である。昔はガイドツアーで古城跡から地下酒場のような所に入っていった記憶があるが、今回はその代わりに薬学博物館を見学した。壁面一杯にならべられている権威の象徴のような数多の薬瓶を眺めては、もし自分がこの時代に生きていたなら、いかにもお金がかかりそうなこれらの恩恵に浴することができたのかどうか、心許なく思った次第である。

ネッカー川の対岸のほぼ同じ目線のあたりがどうも「哲学者の道」のようである、と見当をつけて目指すことにした。古城から坂を下りマルクト広場を過ぎて立派な塔が端に建っている橋を渡って対岸に出た。どこかに表示でもあるかと目をこらしてみると、余り大きくはないが矢印で方向を指した掲示板を妻が見つけた。となるともう少しで登り口にさしかかるはずだ、と川沿いに歩いていっても、なかなか登り口らしいものに出会わない。幾らなんでもおかしいと思い掲示のあった場所に戻ると、案内板の直ぐ角の細い道がどうも登り口のようであった。

私の感覚では道しるべなるもの、まず手前に予告があるべきなのである。ところが私の気のせいかドイツではその箇所に目立たないように印があるだけ、見つけたら即反応しないといけないようだ。他二三の場合にも同じような思いをした。

それに登りの道幅があまりにも狭い。まさに路地であって、まさかこれが世に喧伝されている「哲学者の道」へ通じているとは思えない。それに足を踏み入れて坂を上り始めるにつれて、ひょっとして間違いじゃないのかとの思いが深まる一方である。勾配が大きい。道はくねくねと曲折が激しいから前方の視野が極めてせまい。見通しがきかないだけよけいに不安になる。汗が噴き出してくるし息は荒くなる。妻が引き返そうかと言い出した頃、展望台のようなところが目に入った。ということはやはり間違いではないようだ。

このような休憩所が全部で3カ所あったと思う。それぐらい長い道のりなんである。私どもが休んでいると、若い東洋の青年が飲料水のペットボトルを片手に元気よく通り抜けていった。さあ、どれぐらい時間がかかったのだろう、ようやく登り道の終点が目に入ってきてほっとした。

躍り出た先はなんのこともないアスファルトの変哲もない道、川側に無粋なパイプの手すりがある。道ばたのベンチに、先ほど勢いよくわれわれを追い越していった若者が、精も根も使い果たした風情でぶっ倒れていた。ここからの眺望はさすがに見事。道のほとりにここが「哲学者の道」と呼ばれる由縁をしるした案内板があった。

私が思うにこの道は眺望を愛でるにはうってつけであろうが、思索しながら歩くような雰囲気のところではない。それよりも私たちが辟易した急坂を毎日上り下りすることで、剛健な思索者としての体力を養ったことに、「哲学」ならぬ「哲学者」の名称の起源があったのだろうと一人で納得した。

始めに述べた「地形類似説」、この方の信憑性がどうも高いように私は思う。
これが私の思索の成果である。

鴎外二題

2004-10-11 09:14:23 | 海外旅行・海外生活
その一、ライプチッヒの地下酒場に森鴎外が留学中に頻繁に通った、なんて前回紹介したけれど、これはガイドブックからの引き写しである。書いてしまってから気になり、ちょっと調べることにした。

まずは鴎外がライプチッヒに到着するまで。

岩波書店から昭和50年に発行された鴎外全集第35巻、87ページから191ページに亘って明治17年10月から同21年5月までの「独逸日記」が収められている。そして添付の月報35では「17年8月23日出発10月12日伯林着ライプチッヒ大学に入る19年5月ミュンヘン大学20年4月伯林大学に入る」と独逸での動向が簡潔に記されている。「独逸日記」によると「22日、午後2時30分、汽車にて伯林を発す。ライプチッヒに達せしは5時35分なりき。」とあって、ベルリン、ライプチッヒ間が約3時間であることが分かる。現在はその170km余りをICEが2時間足らずで走るが、当時数えで23歳の鴎外青年にとって時速60kmで走る汽車は飛鳥の如く感じられたにちがいない。。

「独逸日記」に注意深く目を走らせたが、この地下酒場のことが出てくるのは一カ所で、明治18年12月27日、「・・・夜井上とアウエルバハ窖 Auerbachskeller に至る。ギョオテの「ファウスト」Faust を訳するに漢詩体を以てせば・・・」とあるのみ。ミュンヘンに移るまでのほぼ1年半の間、ここ以外の酒場、カフェーに顔出ししていることが日記から分かるが、地下酒場を頻繁に通った事実を裏付けるものはなかった。ただ大学のキャンパスからも近いので、昼食を摂るにはもってこいの所、ある時は一人で黙々とジャガイモ料理を食べ、ある時はビール片手に仲間との談論を楽しんだことであろう。鴎外は几帳面だったようであるから、もし出納帳を残しているのなら間違いなく酒場通いも記録されているであろう。。


その二、鴎外記念館に偶然出くわした話である。妻が転倒して額の傷の手当てを受け、病院から解放されたのは午後2時過ぎ。外に出てまず目に入ったカフェーで巨大なケーキとコーヒを注文して昼食代わりとした。終わったのが3時頃、店を出て周囲を見渡すと鉄道の高架が目の前の通りの遙かかなたに見える。そちらの方に行けばいずれは駅が分かるだろうと歩き出してしばらくすると、妻が「鴎外記念館がある」という。足元に気をつけなかったからひっくり返ったのだから、おそるおそる路面を見下ろしながら歩くのかなと思ったのに、脚下照顧もなんのその、視線を上に向けて闊歩していてかなり高いところにある案内板に気づいたらしい。歩いてきたLuisenstrasseに面して入り口があった。
明治20年4月15日、鴎外はライプチッヒの後ミュンヘンに移り、そして最後の滞在地ベルリンにやって来たのである。「ロウベルト、コッホ Robert Koch に従いて細有機物学を修めんと欲するなり」がその動機である。夜汽車であったが車中、ハプニングのおかげで一睡も出来ずにベルリンに到着したらしい。翌16日の昼時にベルリンに到着し、早くも18日に宿として落ち着いたのがこの建物である。Marienstrasse 32 bei Frau Stern。Luisenstrasse とのちょうど角になる。鴎外在独中の下宿でここだけが唯一現存しているとのことである。閉館が4時なので滑り込んだもののあまり時間が残されていなかった。

2階に上る。フロア全体が記念館のようである。いくつもの部屋に展示品があり、本で占められた部屋もある。鴎外全集はもちろんのこと岩波の古典文学全集なども揃っている。説明によるとこの記念館は、現在ベルリン・フンボルト大学日本文化研究センターの付属機関となっているので、研究の用にも役立っているのであろう。

鴎外が生活をしていた部屋が再現されていた。窓二つを備えて一隅に暖房用の陶器製煙道が設けられていた。ベッド、洗面台、机に椅子、書棚などが20畳前後の部屋に配置されている。ストイックではあるがゆとりのある設えで、政府からの官費留学生であった若きエリートの豊かな生活を彷彿とさせるものである。

ところが入居して2ヶ月も経たないうちに鴎外はこの下宿を逃げ出している。「(6月)15日。居を衛生部の傍らなる僧坊街 Klosterstrasse に転ず。」これに引き続いて理由を述べている。それを私流に解するとこうなる。

この家主は40ばかりの寡婦で17歳の姪と一緒に住んでいるのだが、その二人とも浮薄このうえもなく、お喋りで遊び好き。家に居れと云われるぐらいなら死んだ方がましと云って出歩く。だから自分がいないと届いた郵便物なども受け取って貰えないし、来客があってもサービスしてくれない。それにこの17歳の姪は夜になると部屋にやってきて、わがベッドに座っては話し込む。悪意があるのでは無いが、この懐の暖かい自分を籠絡してやろうとの魂胆は見え見えである。そのくせ、日頃教育のある人種との付き合いなどないものだから、学問に精励するものを役立たずの勉強馬鹿とののしり、自分をその親玉のように云う。こんなところはもう我慢できない。

あらためてベッドを見るとこれはシングルベッド。そこを占拠されたら鴎外は机の前の椅子にでも座っていたのだろうか。今でもそうだがヨーロッパの小さな宿のベッドは、長年の使用なのか真ん中が落ち込んでいるのが多い。横に座るわけにはいかないだろう。

鴎外が帰国後、独逸から彼を追って来日した女性の存在はよく知られていること。その頃既に付き合いが始まっていたのであろうか。また調べる材料が出てきたところで今日はお仕舞い。

慌ただしく駆け抜けて記念館から出てきて妻は「これ見つかったのは怪我の功名」と鼻高々だった。

悪魔の出た地下酒場

2004-10-08 15:18:57 | 海外旅行・海外生活
旅に出て楽しみの一つは食事である。その土地の美味しい料理を味わう期待感に胸はふくれるものの、それを満たすのは必ずしも容易ではない。始めて訪れた不案内の土地で、どのお店のどの料理が美味しいものやら分かるはずがない。ガイドブックのレストラン案内が参考にはなるけれど、これまでの経験から当たりはずれが必ずあるし、それよりなにより、地図を片手にそのお店を探し出すのが一苦労ということが多い。

今回のドイツ・チェコ旅行でぜひ訪れなくちゃ、と探し探し求めたレストランはただ一つ、ライプチッヒのアワーバッハス・ケラーである。ゲーテが学生時代によく出入りし、森鴎外も留学中に頻繁に通ったといわれるレストランである。ライプチッヒの目抜きのアーケード商店街、その入り口にある地下への階段を下りたところにある。「地下に」とは思いもしなかったので最初は見過ごしてしまい、同じ場所をぐるぐる回ったあげく人に尋ねて、なーんだ、と分かった次第である。ケラーとは地下酒場のこと、とようよう思い当たった。

地下階段の入り口に銅像が建っていて、台座に銘板が埋められている。それによると「ファウスト」にこの酒場が出てきて、そこにメフィストが登場するのであろう。銅像はメフィストとファウストであろうか、怖さを感じさせない親近感のある悪魔である。だからこそ本当は怖いのだろうか・・・・。手前に姿を現しているのは現代の「赤衣の小悪魔」である。この銅像が目に入らなかったのはどうかしている。まさか酒場がこんな高尚なシンボルを掲げているとは思いもしなかったし、赤提灯の雰囲気が地下に姿を潜めていたからである。

通されたのはだだっ広いホール、お昼時をかなり過ぎていたせいか客はまばらである。階段を下りたところでこちらのホールに入ったが、その対面にもドアがあり、そちらは閉じられていた。なにか秘密の扉のような趣があるので、多分その奥にメフィストが出没したのであろう。料理はサラダにシチューのようなものを注文したが、味は可もなく不可もなく、ビールの酔いが回るにつれ魂は幻想の世界に彷徨い出た。

魔法の薬またはがまの膏

2004-10-06 13:08:42 | 海外旅行・海外生活
旅先で病にかかったり怪我をすると大変、楽しい旅の筈が一転、日常の生活に戻される。ましてや外国ではもろもろの事情に疎いだけに、どうすればいいのか、途方に暮れることになる。幸いわたしどもの場合は怪我はけがでも一番軽いケースであったので、旅を続けられる目途がついた時点で気分も落ち着いた。

ところで気になるのは支払いのこと、病院では50ユーロをすでに払ったが、救急車代としてドイツ赤十字社から届いた請求は229.39ユーロ。銀行振込になっているので帰国後に済ませることにして、その旨をファックスで通知した。

以前は海外旅行に際して、念のために旅行者傷害保険などを購入していたが、これまでお世話になったのは一度きりであったので、最近では止めてしまった。加入しているクレジット・カードが海外旅行に際して自動的に保険をかけてくれるシステムのあることに気がついたことも与っている。どれほどのものか、と半信半疑であったが結果的にはなかなかのサービスであったといえる。

帰国後直ちに電話で状況を説明した。送られてきた手続きの書類に必要事項を記入して、領収書と請求書を添えて送り返すと、50ユーロは直ちに私の口座に入金されてきた。救急車費用はカード会社からドイツ赤十字に直接支払われるとのことであった。どの程度の範囲までカバーしてくれるのか、試してみようとは思わないが、これからは大船に乗った気分で海外に出かけられそうである。

事情を知らなかったといえばそれまでだが、無駄なこともしてしまった。

事故のあと、これは即刻カード会社に連絡すべきだと思い、ベルリンのホテルからパリの事務所に電話をした。日本語で通じるのは有難かったけれど、事故の状況はもちろんなにやかやと細かいことを聞かれる。例えば目撃者は誰か、などと。不特定多数が参加するツアーだからツアーガイドかなと思いその旨を告げるとその名前を問われる。そうか、人はいつもそういうこともちゃんと把握しておくべきなのか、と我が身のいたらぬところを謝する始末で、それならご主人のあなたで結構です、とようやくお許しを頂いた。こんな調子だから、なんだか尋問を受けているような心地がした。

かれこれ小一時間もかかったこのやりとりが全くの無駄だったのである。この結果は当然本社に連絡されていると思っていた。ほぼ10日後に帰国してから本社に電話をしてその旨を述べると、会社が違うので最初から事情をご説明下さい、と云われたのである。今から思うにパリの連絡所はもともと、アクシデントに遭遇して途方に暮れた時に、どうすればいいのか指示を仰ぐためのものだったようである。

閑話休題、亭主が電話でやりとりしている間に、妻はディナー?に備えておめかしに専念、やめておけ、との忠言も耳に入らずシャワーを使っている。濡れたばんそこうは取り替えたものの、案の定、亭主に逆らった報いが現れ、それをまた私が償うことになる。

医者の言に従えば、一晩でばんそこうが取れたはず、なのである。
ところが翌朝、ばんそこうの表まで汚れがかなり広がっている。傷口が乾くどころか膿で覆われている。ばんそこうは予備に何枚か貰っていたが、清拭するにもポケットティッシュぐらいしかない。ホテルで場所を聞き最寄りの薬局にかけつけ、清拭用のティッシュにばんそこうも多い目に購入した。

ベルリンからドレスデンに移動したが、その間、ばんそこうを頻繁に取り替えてもなかなか傷口が治らない。相変わらず化膿している。次のことを考えないといけないな、と思ったが、お世話になった病院のあるベルリンはもう遠くの彼方、簡単に訪れるわけにはいかない。となるとやはり便りになるのは薬局、ドレスデンから日帰りで訪れた由緒ある大学の街、ライプチッヒで最初に目についた薬局に飛び込んだ。日本では街の薬局で化膿止めの抗生物質などの入っている薬は購入できない。ドイツでも同じ状況なら病院に行かないといけないと案じたが、なんと有難いことに抗生物質入りの塗り薬を気軽に取り出してくれた。

効き目は抜群、日常、薬と無縁な原始人的生活を送っているせいか、一回の塗布で一晩寝ている間に傷はきれいに治ってしまった。「がまの膏」さながらである。しかし傷は癒えたものの転倒時にかなり強打したのであろうか、内出血による鬱血が眼窩にそって大袈裟に拡大した。お岩様のご誕生である。それ以来帰国後もしばらくは妻が人前に出る時にサングラスが必需品になってしまった。

私と云えば、ニキビを潰したり(この年で)、虫さされをひっかきすぎて出来たかき傷にこの魔法の薬を塗り込んでは、もともと膿むかどうかも分からないのだけれど、その抜群の効果に心から満足している。


ベルリンで救急車に乗る

2004-10-04 13:13:16 | 海外旅行・海外生活
妻の頭は仰々しく包帯で巻かれ両手は血染めになっている。赤い革ジャケットのところどころに血が付着して盛り上がっている。救急車は音もなく走る。エンジン音はあるけれどサイレンを鳴らしていない。そこでふと思った、一刻を争う大事ではないようだ、と。徒歩で回るはずだったところを救急車の窓越しに眺めている。人生、何がどう転ぶものやらまさに予断を許さない。

病院に到着して妻は直ぐに診察室に導かれ、私は手続きを進めるために受付の女性と向かい合った。救急車が走り出す前にすでに救急隊員から氏名、住所とか滞在しているホテル名などを聞かれていたが、ここでも同じようなことを聞かれた。救急車ではクレジットカードを持っているかと聞かれ、病院での支払いを心配してくれてのことと思い、持っていると答えると、それで納得してくれた。案の定、病院ではそのカードを出して下さい、といわれる。説明によると何はともあれ初診費用として50ユーロを払わないといけないとのことである。まずダイナーズを出すとそれは駄目で、次に出したVISAを受け取って貰えた。

ドイツ語でやりとりするようになればおおごとだなと案じたが、すべて英語で用が足りた。ネイティブ・スピーカーでないだけにかえって分かりやすい。日本の病院の窓口で、外国人が英語で話しかけた時に直ぐに英語に切り替えて応対できるような係員が配置されているのかどうか、ちょっと気になることであった。

連れて行かれた病院は、支払い手続きの書類を見るとCharite -Universitatsmedizin Berlinとあるので、大学の付属病院であることは分かった。さらに場所がCampus Virchow-Klinikumとある。ウィルヒョウといえばあの19世紀の著名な病理学者ではないか、とするとこれはベルリン大学医学部の付属病院と云うことになる。森鴎外もかって留学したことのある大学だ。いろんな歴史にも関心を持っていた私にとって、思いがけなくも運転手付きの車でこの由緒あるところに連れてこられたのはラッキーなこと、災いを転じて福となす、である。なんとなく歴史上の人物に連なるような気がしてきた。ベルリン大学は戦後は東ドイツに入れられ、フンボルト大学と呼ばれるようになり、現在もその名称を引き継いでいる。

手続きが済んで診察室に案内された。妻は既に治療を終え、大袈裟な包帯は除かれ大きめのばんそこうが右額に貼り付けられている。ベッドに横たわっている間に医師から説明を受けた。単なるかすり傷で深くはなく、綺麗に洗って消毒をしたし出血ももう止まっている。吐き気に嘔吐、ものが二重に見えることもないし頭痛もなし、首なども自由に動くし頭骨の異常はなしとのこと。破傷風の予防注射を受けたことがあるかと尋ねられたので、無い旨を答えると、念のためにしておこうという。浅い傷だから必要はないとは思ったが、10年間有効、に釣られてウンと云ってしまった。気の毒に、痛い目にあうのは妻である。

出血のひどさにまず頭に浮かんだのは、もし入院ということになって、旅行を中断することになったらどう対処しようか、ということであった。嬉しいことに、医者は旅行には支障はない、ただ、三日ほど何か異常が起こらないかを注意するように、もしその時は直ぐに病院に来るようにと云ってくれたので、やれやれと胸をなで下ろした。B型人間で日頃頑固振りを発揮する妻(全国のB型女性諸姉へ あなたのことではありません!)に辟易の私も、今回ばかりはその石頭に心からなる敬意を払ったのである。元気も戻ってきたことでもあるし、今日は帰ってホテルで静かにするように、との声に送られて意気揚々病院を後にした。もっとも妻は、若くてハンサムな男性医師二人に大事にされたものだから、実はもっと居りたかったらしい。私はハッとするような美人医師ともっぱら話していたから、これはどっこいどっこいである。

ホテルの自室に戻ったら早くも救急車の請求書が届けられていた。ドイツでは救急車が有料だったのである!



渋井陽子選手に先駆けて

2004-09-28 13:22:16 | 海外旅行・海外生活
26日のベルリン・マラソンで渋井陽子選手が高橋尚子選手の記録を5秒上まわる日本新の記録で優勝した。アテネ五輪で優勝の野口みずき選手に続く快挙で、大和撫子世界に冠たるものがある。ウンター・デン・リンデンからブランデンブルグ門をくぐり抜けてのゴールインに三ヶ月前の記憶が鮮明に甦った。渋井選手に先駆けて思いがけなくウンター・デン・リンデンを走ったのである。

フランクフルトから列車でベルリンに到着した二日目、ホテルにあるパンフレットで知った「歩いて廻るベルリンの旅」なるプランに参加することにした。英語で説明するガイドがベルリンの主なところを30カ所以上案内してくれることになっている。移動にはU-バーン、S-バーンを使うので、このほかバス、トラムを含めて3日間乗り放題のベルリン・ウエルカムカードをベット購入しておくと、ツアー料金も一人当たり3ユーロ安くなって9ユーロであった。所要時間は4時間前後。ベルリンへの玄関口となっているツォー駅のタクシー乗り場辺りが集合場所でわれわれが一番乗りであった。なかなか人がやって来ないのでちょっと不安だったが、やがて少しずつ参加者が増えてきて最終的には30人は超えた。

S-バーンで残りの参加者との第二の集合場所であるハッケシャー・マルクト駅まで移動、合流してペルガモン博物館、旧ナショナル・ギャラリー、新博物館などが集中する博物館島からいよいよツアーが始まった。女性ガイドはポイントポイントを達者な英語で要領よく説明してくれる。私はいつもの癖で説明をちょっと耳にするだけで、あとはグループを目の端に捉えながら気ままに自分の見たいものを丹念に見てまわるのであった。石造の建物に刻まれたベルリン攻防戦の激しさを物語る無数の弾痕など、ヒットラー・ユーゲントと同じ時代を過ごした私には特別の感慨をある。そしてベルリンを代表する通りとして著名なウンター・デン・リンデンの標識を目にするとそれをカメラに納めるのに集中していた。

と、急にグループに動きがあって一カ所に人が集まっていく。何事かと思って私も近づいていくとなんと妻が倒れていて顔を押さえた両手の隙間から血がしたたり落ちている。右眉毛の上あたりに出来た傷から血が噴き出している。親切な人たちが次から次へと差し出してくれるティッシュをあてても直ぐに血でびしょびしょになる。ティッシュを取り替えるのに追われている傍らで、早速今日は何日かなどと問いかけてくれる人がいる。それに対して妻が英語で正確に受け答えをしていたから、意識大丈夫と胸をなで下ろしたけれど、これはバンドエイドを当てたままツアーを続けられる状態ではないという気がした。その矢先にガイドさんが救急車を呼ぼうかと聞いてくれたのでお願いした。携帯で呼んでくれたが救急車が到着するのに10~15分はかかったと思う。妻は敷石のでこぼこに足を取られて転倒し頭が敷石を直撃したのであった。

応急処置を受け、包帯で頭をぐるぐる巻きにされた。30分前後はツアーグループの皆さんの足を止めていたことになる。いろいろと声をかけて頂き親切が身にしみていただけに参加者の貴重な時間を無駄にしてしまったことまことに申し訳ないことである。その旨をお詫びして全員の見送りを受けながら病院に向かうことになった。車が走り出すと安堵感からか、ウンター・デン・リンデンから救急車で運ばれるなんて滅多にないこと、ヒットラーも経験したことではあるまい、と思う心の余裕が生まれた。

続く