高校時代のクラスメートから自費出版の著作が送られてきた。山部恵造著「磁石のふしぎ 磁場のなぞ」(けやき出版)で「磁気と磁性材料―歴史・理論・技術」の副題が付いている。物理の勉強は大学時代で途切れてしまっていたが、この本を手に取ると何事にも熱情家であった旧友の熱い息吹が伝わってきて、目を通してしまった。
山部(と学生時代に戻って呼ぶことにする)は東大工学部冶金学科を卒業後、日本電信電話公社(現NTT)電気通信研究所に入所して研究者の道を歩み、定年退職後は月刊誌「金属」編集のかたわら連載執筆したとのことである。上記の本もこの連載記事が元になっている。
「まえがき」はこのように始まる。
《この本は、磁気と磁性材料にかんする根元的な二つの「なぞ」と、磁性の基礎理論、磁性材料の開発・利用のための基礎的な考え方を書いたものである。》
「うん、難しそう」と思ったが、ふと左ページの献辞が目にはいった。
兵庫県立 兵庫高校 元教諭
藤田 清成 先生 に
「そうか、あの先生、清成さんだったのか」と改めてその姓名を反芻した。在校時代に藤田先生と呼んだ覚えすらなかったからである。「ベックさん」とわれわれは呼んでいた。
私は故あって一年生の二学期に兵庫高校に転入学した。昭和25年、朝鮮戦争勃発の年である。旧制の神戸二中で、戦前からの教師が何人も勤務しており、そのことを後年出版された妹尾河童著「少年H]で知った。一学年に八学級あり、学校はすでに男女共学になっていたものの私のクラスは三年間男子生徒ばかりであった。理科は二教科を選択することになっていて、「物理」「化学」の二科目を選択すると一年生では化学、二年生で物理を学び、三年生では両教科を改めて履修することになっていた。大学受験の便宜のためだったのだろうか。なぜか物理と化学を選択する女子生徒がいなくて、その結果、私のクラスは三年間ほぼ同じ顔ぶれで、担任は一年が体育教師、二年は数学教師で三年は持ち上がりであった。
二年生に進級する頃、われわれの最大関心事は物理の授業に生き残ることが出来るだろうかということで、心に不安が渦巻いていた。ベックさんの授業がとてつもなく難しくて、おまけに気むずかしくて癇癪持ちで云々、と取り沙汰されていたからである。
力学から始まった。スカラーとかベクトルとかが出て来た。どのような教科書を使ったのか、今は記憶にない。ベックさんが黒板にチョークで書き連ねることを一生懸命書き写すのが常であった。このベクトルがベックさんの呼び名の起こりであったのだろうと思う。ベクトルさんがベックさんになったに違いない。
今でも印象に残っているのは、その講義―高校では授業と言うべきであろうが、大学での講義に匹敵する内容だったのでこのように記す―が極めて理路整然としていたことで、だから強い説得力をもってわれわれに迫ってくるのである。黒板をノートに書き写すという作業が、「今、こういう事を学んでいるんだ」と理解したことの再確認になった。新知識が次から次へと身に付いていくようで、ベックさんの講義に私は興奮していた。
自分ではそれなりに理解できたつもりだったが、学期末試験などは惨憺たるものだった。落第点のような点を取ったような気がするが、それでもクラスでトップということもあった。われわれの成績を評言するベックさんのシニカルな表情が印象的であった。
その頃のベックさんは何歳ぐらいだったのだろう。見当もつかないし考えたこともなかった。二十代かそれとも三十代だったのだろうか、いずれにせよ独身であったように思う。白皙の学者と云うのふさわしい風貌に、私は芥川龍之介を連想したものである。
黒板にチョークで書いている途中で、考え込まれることもあった。そうか、難しいことを考え込むにはあのポーズはいいな、と思った私は一人でその真似をしたこともある。たまたまベックさんが考え込んでいるときに校庭から何人かがはやし立てたことがあった。「ベックなんとかかんとか」、多分物理でベックさんに痛めつけられた上級生だったのだろう。やにわにベックさんが窓際に歩み寄って、あれは三階教室だったと思うが、何か怒鳴りながら手にしたチョークを彼らに投げつけたことがあった。なるほど、これが癇癪玉と云われる所以かと思った。
その頃私が熱心に読んだのがアインシュタイン・インフェルト著、石原純訳「物理学はいかに創られたか」(岩波新書)の上下巻である。ベックさんに教えられたのか私が本屋で見付けてきたのか定かでないが、毎日早起きして取り組んだ。その当時の本は傷んでしまって、今私の手元にあるのはその後買い直してものであるが、今あらためて目を通しても実に素晴らしい名著であると思う。「原著序文」を引用する。
《どんな目的でこの書物が書かれたのであるか。》
《私たちは物理学の教科書を書いたのではありません。ここには初歩的な物理学上の事実や理論を系統立てて述べてはありません。私たちの目的とするところは、むしろ人間の心が観念の世界と現象の世界との関係を見つけ出そうと企てたことについて、その大要を述べてゆこうとする点にあるのでした。つまり世界の実在に対応するような観念を科学の名で案出してゆくところの原動力を示そうとしたのでした。》
ベックさんの講義の圧巻は、思考実験から出発して電磁場をマックスウエルの方程式で表し、またそれを解いていったことであった。数学の授業でもようやく微分積分に触れるか触れないかのレベルの時に、偏微分演算子や積分記号に丸のついたものものまで出てくる始末、しかしそれらが何を意味するのか、説明がしっかりしているから頭の中にすんなりと入っていく。そして場の微分であるgradという概念を説明して、▽なる演算子まで使って、いつの間にかマックスウエルの方程式が出来上がってしまったのである。その講義のの詳細はともかく、私には素直にその流れを追うことが出来たとの思いがあった。理解できたというのが錯覚であったかも知れないが、そう思わせるぐらいに話の展開が理詰めであったのだ。思考実験の出発は電気の流れと磁石の動きだから、概念的には何も難しいことではない。何がどのように動き、それを数式でどう表現するか、その話が理解できればよかったのである。
しかしいわば物理には素人に等しい高校生を相手に、マックスウエル方程式をとにもかくにも導いてみせたベックさんの力量は、ただただ敬服するばかりである。その後大学の教養課程で物理を受講し、再びマックスウエルの方程式にお目にかかった。しかし味も素っ気もない表面的な説明に、改めてベックさんの偉大さを思い知ったのである。
「物理学はいかに創られたか」に戻る。この本では数式を一切使わずにマックスウエル方程式が、それまでの『電場の変化は磁場の変化を伴う』、『磁場の変化は電場を伴う』を結びつける理論を表現するものとして出てくる。ここに出現した電磁場は目には見えず手に触れることも出来ないが、厳然とした実在で、その構造を記述するものがマックスウエルの方程式そのものなのである、と著者は言い切る。マックスウエルの方程式こそ『世界の実在に対応するような観念』そのものなのである。その意味ではベックさんのマックスウエル方程式は、物理の根元的なものをわれわれに伝えようとした強力なメッセージであったのかもしれない。
山部は自著の「まえがき」に《ここで本書を、兵庫県立 兵庫高等学校元教諭 藤田清成 先生に捧げることをお許し頂きたい。先生は、 今考えると「少数の原理から、論理の組み立てで、多くの自然現象が解明出来る」という物理の真髄を教え、また「物理をやったら・・・」と私を励まして下さった。》と記している。
この旧友のみならず、三年間共に過ごしたクラスメートの多くが物理に進んだ。われわれが高校に入学する直前、昭和24(1949)年秋に湯川博士がノーベル物理学賞を受賞した影響もあっただろうが、私はこのベックさんの影響力が大きかったと思う。偉大な教師ベックさんに教えを受けたことを誇りに思いつつも、天の邪鬼の私は違う方向に進んでしまった。
山部の著書が取り上げた「なぞ」の一つが、なぜ磁石は鉄を「引きつけるのか―磁場のふしぎ」ということである。そして、引きつける力の本質は「光子の交換」だという。ただ光子といっても可視光線でもなければ電磁波でもない・・・・、と続くので、これから先はついて行けない。しかしこの記述に私は偉大な教師であったベックさんの存在を感じたのである。
私たちが卒業してから何年後か、ベックさんの物理は受験向きでないとかで騒動が起きたとか仄聞した。私は何時の間に生徒(父兄?)の質がそれほどまでに落ちてしまったのか、と嘯いたものである。それから半世紀も過ぎてしまった。