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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

山部恵造著「磁石のふしぎ 磁場のなぞ」と偉大な高校物理教師

2006-09-07 18:34:50 | 

高校時代のクラスメートから自費出版の著作が送られてきた。山部恵造著「磁石のふしぎ 磁場のなぞ」(けやき出版)で「磁気と磁性材料―歴史・理論・技術」の副題が付いている。物理の勉強は大学時代で途切れてしまっていたが、この本を手に取ると何事にも熱情家であった旧友の熱い息吹が伝わってきて、目を通してしまった。

山部(と学生時代に戻って呼ぶことにする)は東大工学部冶金学科を卒業後、日本電信電話公社(現NTT)電気通信研究所に入所して研究者の道を歩み、定年退職後は月刊誌「金属」編集のかたわら連載執筆したとのことである。上記の本もこの連載記事が元になっている。

「まえがき」はこのように始まる。

《この本は、磁気と磁性材料にかんする根元的な二つの「なぞ」と、磁性の基礎理論、磁性材料の開発・利用のための基礎的な考え方を書いたものである。》

「うん、難しそう」と思ったが、ふと左ページの献辞が目にはいった。

     兵庫県立 兵庫高校 元教諭
        藤田 清成 先生 に

「そうか、あの先生、清成さんだったのか」と改めてその姓名を反芻した。在校時代に藤田先生と呼んだ覚えすらなかったからである。「ベックさん」とわれわれは呼んでいた。

私は故あって一年生の二学期に兵庫高校に転入学した。昭和25年、朝鮮戦争勃発の年である。旧制の神戸二中で、戦前からの教師が何人も勤務しており、そのことを後年出版された妹尾河童著「少年H]で知った。一学年に八学級あり、学校はすでに男女共学になっていたものの私のクラスは三年間男子生徒ばかりであった。理科は二教科を選択することになっていて、「物理」「化学」の二科目を選択すると一年生では化学、二年生で物理を学び、三年生では両教科を改めて履修することになっていた。大学受験の便宜のためだったのだろうか。なぜか物理と化学を選択する女子生徒がいなくて、その結果、私のクラスは三年間ほぼ同じ顔ぶれで、担任は一年が体育教師、二年は数学教師で三年は持ち上がりであった。

二年生に進級する頃、われわれの最大関心事は物理の授業に生き残ることが出来るだろうかということで、心に不安が渦巻いていた。ベックさんの授業がとてつもなく難しくて、おまけに気むずかしくて癇癪持ちで云々、と取り沙汰されていたからである。

力学から始まった。スカラーとかベクトルとかが出て来た。どのような教科書を使ったのか、今は記憶にない。ベックさんが黒板にチョークで書き連ねることを一生懸命書き写すのが常であった。このベクトルがベックさんの呼び名の起こりであったのだろうと思う。ベクトルさんがベックさんになったに違いない。

今でも印象に残っているのは、その講義―高校では授業と言うべきであろうが、大学での講義に匹敵する内容だったのでこのように記す―が極めて理路整然としていたことで、だから強い説得力をもってわれわれに迫ってくるのである。黒板をノートに書き写すという作業が、「今、こういう事を学んでいるんだ」と理解したことの再確認になった。新知識が次から次へと身に付いていくようで、ベックさんの講義に私は興奮していた。

自分ではそれなりに理解できたつもりだったが、学期末試験などは惨憺たるものだった。落第点のような点を取ったような気がするが、それでもクラスでトップということもあった。われわれの成績を評言するベックさんのシニカルな表情が印象的であった。

その頃のベックさんは何歳ぐらいだったのだろう。見当もつかないし考えたこともなかった。二十代かそれとも三十代だったのだろうか、いずれにせよ独身であったように思う。白皙の学者と云うのふさわしい風貌に、私は芥川龍之介を連想したものである。

黒板にチョークで書いている途中で、考え込まれることもあった。そうか、難しいことを考え込むにはあのポーズはいいな、と思った私は一人でその真似をしたこともある。たまたまベックさんが考え込んでいるときに校庭から何人かがはやし立てたことがあった。「ベックなんとかかんとか」、多分物理でベックさんに痛めつけられた上級生だったのだろう。やにわにベックさんが窓際に歩み寄って、あれは三階教室だったと思うが、何か怒鳴りながら手にしたチョークを彼らに投げつけたことがあった。なるほど、これが癇癪玉と云われる所以かと思った。

その頃私が熱心に読んだのがアインシュタイン・インフェルト著、石原純訳「物理学はいかに創られたか」(岩波新書)の上下巻である。ベックさんに教えられたのか私が本屋で見付けてきたのか定かでないが、毎日早起きして取り組んだ。その当時の本は傷んでしまって、今私の手元にあるのはその後買い直してものであるが、今あらためて目を通しても実に素晴らしい名著であると思う。「原著序文」を引用する。

《どんな目的でこの書物が書かれたのであるか。》
《私たちは物理学の教科書を書いたのではありません。ここには初歩的な物理学上の事実や理論を系統立てて述べてはありません。私たちの目的とするところは、むしろ人間の心が観念の世界と現象の世界との関係を見つけ出そうと企てたことについて、その大要を述べてゆこうとする点にあるのでした。つまり世界の実在に対応するような観念を科学の名で案出してゆくところの原動力を示そうとしたのでした。》

ベックさんの講義の圧巻は、思考実験から出発して電磁場をマックスウエルの方程式で表し、またそれを解いていったことであった。数学の授業でもようやく微分積分に触れるか触れないかのレベルの時に、偏微分演算子や積分記号に丸のついたものものまで出てくる始末、しかしそれらが何を意味するのか、説明がしっかりしているから頭の中にすんなりと入っていく。そして場の微分であるgradという概念を説明して、▽なる演算子まで使って、いつの間にかマックスウエルの方程式が出来上がってしまったのである。その講義のの詳細はともかく、私には素直にその流れを追うことが出来たとの思いがあった。理解できたというのが錯覚であったかも知れないが、そう思わせるぐらいに話の展開が理詰めであったのだ。思考実験の出発は電気の流れと磁石の動きだから、概念的には何も難しいことではない。何がどのように動き、それを数式でどう表現するか、その話が理解できればよかったのである。

しかしいわば物理には素人に等しい高校生を相手に、マックスウエル方程式をとにもかくにも導いてみせたベックさんの力量は、ただただ敬服するばかりである。その後大学の教養課程で物理を受講し、再びマックスウエルの方程式にお目にかかった。しかし味も素っ気もない表面的な説明に、改めてベックさんの偉大さを思い知ったのである。

「物理学はいかに創られたか」に戻る。この本では数式を一切使わずにマックスウエル方程式が、それまでの『電場の変化は磁場の変化を伴う』、『磁場の変化は電場を伴う』を結びつける理論を表現するものとして出てくる。ここに出現した電磁場は目には見えず手に触れることも出来ないが、厳然とした実在で、その構造を記述するものがマックスウエルの方程式そのものなのである、と著者は言い切る。マックスウエルの方程式こそ『世界の実在に対応するような観念』そのものなのである。その意味ではベックさんのマックスウエル方程式は、物理の根元的なものをわれわれに伝えようとした強力なメッセージであったのかもしれない。

山部は自著の「まえがき」に《ここで本書を、兵庫県立 兵庫高等学校元教諭 藤田清成 先生に捧げることをお許し頂きたい。先生は、 今考えると「少数の原理から、論理の組み立てで、多くの自然現象が解明出来る」という物理の真髄を教え、また「物理をやったら・・・」と私を励まして下さった。》と記している。

この旧友のみならず、三年間共に過ごしたクラスメートの多くが物理に進んだ。われわれが高校に入学する直前、昭和24(1949)年秋に湯川博士がノーベル物理学賞を受賞した影響もあっただろうが、私はこのベックさんの影響力が大きかったと思う。偉大な教師ベックさんに教えを受けたことを誇りに思いつつも、天の邪鬼の私は違う方向に進んでしまった。

山部の著書が取り上げた「なぞ」の一つが、なぜ磁石は鉄を「引きつけるのか―磁場のふしぎ」ということである。そして、引きつける力の本質は「光子の交換」だという。ただ光子といっても可視光線でもなければ電磁波でもない・・・・、と続くので、これから先はついて行けない。しかしこの記述に私は偉大な教師であったベックさんの存在を感じたのである。

私たちが卒業してから何年後か、ベックさんの物理は受験向きでないとかで騒動が起きたとか仄聞した。私は何時の間に生徒(父兄?)の質がそれほどまでに落ちてしまったのか、と嘯いたものである。それから半世紀も過ぎてしまった。

「細雪」のお春どんとは

2006-09-01 17:23:11 | 

私が当時勤めていた大学の敷地の北門を出ると細い道路が斜め上に走っていて、右手に歩むと東大路通に出る。そこは東大路通と直交する東一条通との交差点でもあって、三角地の東大路通と東一条通に面した突端に春琴堂書店があった。私が京都に赴任した1970年代の終わりから80年代のはじめにかけて、その書店は日本家屋風の建物でたばこ屋を兼業しており、その窓口の後ろが書店の勘定台にもなっていた。

お昼は外食が常だったので、帰り道にはよく立ち寄り、お店の人たちとも顔なじみになった。中年の夫婦が店を切り回していたが、その主人の母親である上品な老婦人もよく店を手伝っていた。「春琴書店 潤一郎書」の額が天井近くに掲げられていたので、その謂われを尋ねたことから、この老婦人がかって谷崎潤一郎家のお手伝いさんであったことが分かった。しかし谷崎家には大勢のお手伝いさんが出入りしたので、いつ頃の人で、また谷崎とどう関わってきたのか、それなりの好奇心はあったものの殊更確かめはしなかった。言葉は交わすことはあっても、そういう私的なことを老婦人に聞くにはためらいがあったからである。

書店は建て替えられて三階建てになり、二階にはマンガ本なども置くようになって、店の雰囲気が変わってしまった。大学生協の書店が東大路通の体育館脇に移転し品揃えがとても豊富になり、足がそちらに向くようになったこともあって、春琴堂書店に立ち寄る機会は大幅に減った。80年代の終わりには老婦人の姿は消え、主人と顔立ちのよく似た青年が立ち働くようになっていた。

昨日取り上げた小谷野敦著「谷崎潤一郎伝」に老婦人のことが当然出てくるだろうと思い、注意を払っていたら、なんと彼女は『大物』だったのである。

《同月(昭和十六年十二月 私注)、お春どんこと車一枝が、久保義治と結婚して谷崎家を辞したが、以後夫婦とも谷崎と助手的な関わりを持つことになる。》(316ページ)

《同じ日(昭和十九年七月二十九日 私注)、久保一枝宛書簡でも、『細雪』を送る、これからあなた(お春どん)が活躍する、とある。》(326ページ)

《この頃、(昭和二十二年 三月? 私注)久保一枝が夫と共に京大裏の吉田牛ノ宮に、古書店「春琴書店」を始めた。後に春琴堂書店として新刊書店となり、谷崎は死ぬまで、新刊書をこの書店に注文していた。今もなお、谷崎ゆかりの書店として観光客を集めている。》(340ページ)

《昭和十年春、十七歳の車一枝が、女学校を卒業してやってきた。(書簡11『久保義治・一枝宛書簡』)。実家は尼崎で、これが「お春どん」である。》(397ページ)

これで明々白々、あの老婦人こそ谷崎家、そして「細雪」の「お春どん」その人だったのである。ついでに分かったことは、始めてお目にかかった頃この「お春どん」はまだ60歳前後、今の私の年齢を思うと老婦人とは失礼千万、ご婦人とお呼びすべきであったのだ。

「細雪」で次女幸子が『B足らん』で注射するから注射器消毒しといてや、と呼びかけるのに応えて注射器などをもってくるのが女中のお春、ここで登場する。さらこのように人物紹介がなされている。

《お春と云ふのはまだやっと十八になる娘であったが、十五の時から奉公に来、今では上女中を勤めてゐるので、殆ど家族の一員のやうに親しまれてゐて、そのせゐと云う訳でもないけれども、此の女だけ初めからの呼び癖で特別に「どん」附けにされてゐた。》

あのご婦人がなんと「細雪」に登場する人物だったのである。言葉を交わしあっていた頃に、このことを知っていたら私の眼差しも「佐助」になっていたことは疑いがない。彼女を挟んで谷崎と私は手の届く距離まで近づいていたのだ。

佐藤千夜子と「初恋の味」カルピスそして私

2006-07-16 18:39:35 | 

人にまつわる三題噺のようなものである。

以前のブログで斉藤憐著「昭和不良伝」の帯を見て、「シャボン玉の人生」に歌手佐藤千夜子が紹介されていることを述べた。その時には彼女は当代のソプラノ歌手佐藤美枝子とつい間違えてしまう程度の関わりかと思っていた。ところが「シャボン玉の人生」を読んで「アレッ」と思った。佐藤千夜子と私の間にはかなり近い関わりがあることが分かったからである。

佐藤千夜子は昭和4(1929)年に西条八十作詞・中山晋平作曲「東京行進曲」を歌い、ビクターが当時25万枚のレコードを売り上げるという大ヒットを飛ばした。そこで目をつけられたのか次のような仕事が舞い込む。

《そんなある日、ラクトー製造という会社の社長三島海雲から、飲料水の宣伝歌を歌ってくれと言われ、千夜子は「初恋小唄」を歌った。これが日本のコマーシャルソング第一号だそうで、飲料水は「初恋の味」として売り上げを伸ばし、社名も「カルピス食品工業」と買えて今日に至る。》(「昭和不良伝」から)

この三島海雲氏に昔、私がお会いしたことがあるだ。

乳酸飲料の事業で成功を収めた三島氏が、後年食品研究と人文科学研究の助成を目的とした三島海雲記念財団を設立された。もう30年以上は前になると思うが、その学術奨励賞を私は頂いたことがある。私の本来の研究から派生した脇道の仕事であったが、食品のみならず医薬品の保存技術につながる研究に発展して、それで賞を頂いたのである。

確か賞の贈呈式とパーティが一橋の学士会館で行われたと思う。三島海雲氏にお目にかかったのはその時である。氏は前世紀の初めに中国大陸に渡り、モンゴルで体調を崩したときに、遊牧民から勧められて飲んだ酸乳のおかげで回復したことが切っ掛けで酸乳の製法を学んだとのことである。これが乳酸菌飲料の開発につながった。このロマンと氏のお名前そのものが私の夢をも掻きたてたものである。

当然三島海雲氏は佐藤千夜子とも言葉を交わしているだろう。となると氏を介して私と佐藤千夜子がつながることになる。

このような私の好きな因縁話もあって佐藤千夜子と一緒に歌いたくなった。幸いAmazon.comで「昭和を飾った名歌手達①佐藤千夜子」を見付けてそのCDを取り寄せることが出来た。

佐藤千夜子の凄いところは、「東京行進曲」の成功もあって日本では超売れっ子になっていたのに、そのすべてをなげうってイタリアへオペラの勉強に行ってしまうのである。その費用には自分で稼いで貯金した五千円を当てた。

昭和5年に船出してあこがれのイタリアに渡ったものの結果は無惨な失敗。お金も使い果たして日本に帰ってきたのが昭和9年の暮れで、4年間の留守の間に彼女の出る舞台はもはや残されていなかった。

なぜ失敗したかは彼女の歌を聴けば分かる。佐藤千夜子は明治29(1896)年の生まれであるが、たとえば彼女より早く1988年に生まれたロッテ・レーマンの歌と聴き比べるとその差が歴然としている。佐藤千夜子には申し訳ないが、月とスッポン、彼女は井の中の蛙であったと言わざるをえない。

しかしその心意気は私を大いに惹きつけるところである。彼女のバスト100、ヒップ110の姿態を想像しながら、負けないように一緒に歌ったのが野口雨情作詞・中山晋平作曲の「旅人の唄」である。彼女の歌を何遍聴いても「te」が「ti」に「ne」が「ni」に聞こえるのである。山形天童の生まれと関係があるのか、とても可愛らしく感じてしまった。

皇后さまとの不思議なご縁

2006-07-03 18:36:07 | 
昨日のブログで皇后さまのことに触れたが、面白いもので(と自分で勝手な理屈をつけて楽しんでいるのであるが)私と皇后さまとの間に何かの関わり合いがいくつかある。といっても幼稚園で一緒にお遊戯をしたなどの直接的なことではなく、私なりに因縁を感じているいくつかの事柄なのである。

まず皇后さまと私は同年の生まれ、小学校に出入りすることのなかった唯一の世代なのである。私の方が何十日か若い。

中学校に行くようになって焼け跡の中の道を通った。往復で3キロほどの道のりである。学校近くにある兵庫運河の上にかかった住吉橋を渡る。往路、橋の左手に運河に面した大きな建物があって、とまった艀から人夫(古い云い方をお許しあれ)が大きな袋物を運び込んでいた。「日清製粉」という会社で、だから袋の中味は小麦であったのだろう。小麦が配給になった記憶はないので、多分パンなどに姿を変えてわれわれの口に入っていたのだろうか。

「日清製粉」の当時の社長が正田英三郎氏、皇后さまの父君である。現在の天皇・皇后両陛下である皇太子と美智子さまのご成婚に際して、「粉屋の娘のシンデレラ物語」などと紹介する外国のメディアもあった。中学生の頃の皇后さまも私もこのような運命の展開とは知るよしもなかったのであるが、ご婚約のニュースが流れてきたときに、「あの工場」と私はなつかしく思い出した。

大学に入って神谷宣郎教授の細胞学講義を聴くようになった。教室では質問しやすいように教壇の斜め前に坐るようにしていた。ある日、講義が終わって神谷先生が私のところに来られて「○○君、抜群の成績だったようだね」と言葉をかけてくださった。大学院入試の終わった時で、後で洩れ聞いたことであるが、私の入試の成績がなかなかよくて、最高得点の半分までが合格範囲という内規のために、例年なら合格するはずの受験生が落ちてしまって私の選んだコースでは定員割れになり、そのことでちょっと評判になっていたらしい。そういう風に気軽に声をかけてくださる先生であったが、この神谷教授の令夫人が神谷美恵子氏で、美智子皇后のよきお話相手であったことは世に知られているとおりである。しかし美恵子夫人はお若くしてお亡くなりになり、私もお葬式に参列させていただいた。これは間接的ながら形のはっきりした皇后さまとの関わりである。

私は大学の卒業式を二年連続して味わった。第一回が在学生総代として卒業生に送辞を述べる役であった。多分各学部・学科の順番でたまたま私に廻ってきたのであるが、卒業生というのが実は入学時は私と同期生という変な巡り合わせであった。私は教養課程を留年してしまったのである。留年にまつわる話はまた述べるとして、この時の阪大総長が数学者の正田建次郎先生で、美智子皇后の伯父君にあたる。この総長臨席の卒業式で私が送辞を述べたという因縁が生まれたのである。

そして、翌年は私も無事に卒業でき、そのときに楠本賞なるものをいただいた。



楠本賞がなにか、人に説明する知識がなかったので最近の大学ニュースを見ると、楠本賞とは「楠本長三郎第2代総長の退官を記念して創立した楠本奨学会から、各学部・学科の優秀な卒業生に贈られる」とのことである。私は楯を頂いた。賞状も頂いたかと思うが所在が確認できていない。楯の裏には正田健次郎総長の自筆署名があり、日付は昭和33年3月25日とあった。



皇太子と美智子さまのご成婚の儀が執り行われたのは、それから一年後の昭和34年4月10日であった。