中山道・板橋宿を散歩
江戸四宿の一つ、中山道六十九宿の初めの宿・板橋宿を散歩してみました。
現在の中山道=国道17号線は黄色線ですが、元の街道は赤線のコースです。
明治16年頃の旧図を覘いてみると下の赤線になります。
今日は赤線の旧中山道を散歩しました。
入口に近い中山道の案内板によると
「中山道は江戸日本橋を起点として、板橋宿から武蔵・上野(こうずけ)・信濃・美濃を経て近江守山まで続き、近江草津で東海道と合流する街道で五街道の一つでした。江戸幕府は幕藩体制を整えるために道幅を五間(約9m)と決めて整備を行ったり、一里塚を築造したりなど街道の整備に努めたということです。・・・板橋宿の延長は十五町四十九間(約1.7Km)になり、江戸に近いほうから平尾・中宿・上宿と三つの宿に分かれていました。中心地だった中宿には問屋場、本陣・脇本陣、料理屋などが軒を並べていたそうです。」
その説明板の地名等を新・旧地形図に記入してみました。
現在の中山道と当時の中山道、石神井川にかかる板橋を中心に上宿、仲宿、平尾宿の存在が明瞭になります。
しかし、当時あった前田家の加賀藩下屋敷はその名の児童公園を残すのみになっていますが、広大な屋敷だったようです。
その様子が、下の現在の板橋宿周辺図(案内板より転載)ではっきりします。
さて、前後しますが、今日はJR板橋駅まで埼京線で行き、そこから環七までを往復しました。
全長は往復で約4Km.まあ~適当な散歩コースです。
板橋駅に降りましたら、正面に近藤勇の墓がありました。
その北区教育委員会の説明板を引用させてもらうと、
「慶応四年(1868)・・・新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。・・・」
さて、いよいよ中山道です。
しばらく行くと、遍照寺に出くわしました。まったくの廃寺です。
ただそこに説明板が建っていましたので紹介します。
「江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であったが明治四年廃寺となった。・・・境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普請継立馬などがつながれていた。境内にまつられる寛政十年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである。・・・」(板橋区教育委員会)
しかし、この通りは、中山道の面影があまり見られない通りでした。
一里塚も見られないし、本陣跡や、遊郭跡も見受けられませんでした。ごく普通の商店街でした。
ただ、昔ながらの「板橋」が、コンクリート製ですが昔の面影を残して存在していました。
その説明板を引用しますと
「この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名になりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。・・・」
数年前に、私は石神井川沿いにサイクリングをした記憶がありますが、この橋は大変印象的でした。是非、この宿場町も散策してみたいと願っていました。
和宮降下の際もこの橋を渡られたのでしょう。
さて、和宮降下というと忘れてならないのが、縁切榎です。
今は3代目だとかであまり大きな木ではありませんが、いわれは有名です。
板橋区教育委員会の立て看板を引用すると
「・・・板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例に倣い、榎を避けるための迂回路が作られています。・・・男女の悪縁を切りたいときや断酒を願うときに、この榎の樹皮を剥ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は罹病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。」とさ、
どうりで、この榎の幹には竹で囲まれていました。
同じ道を引き返し、途中の「いたばし観光センター」に寄りました。
そこで頂いた中山道全線略図を掲載します。
当時は甲州街道で諏訪湖に出ず、遠く軽井沢を経由していたのですね。
和宮降嫁も大変な道のりでしたね。約25日間の行程とか。
「東京マラソン」 出ました?
日曜日 M君より 雛祭りのことで TELあり
ゆっくり話し出来なかったと云っていました。又の機会を楽しみに。 無理しないようにね。