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わが国の遷都のあらすじ

2010-05-31 | 日記
わが国の 「遷都」 のあらすじ

王宮を、他に遷すことを「遷都」といいますが、
国家政府三権(立法府・行政府・司法府)を移すのは、「首都機能移転」といい、遷都とは区別するそうです。

ですから、鎌倉幕府や、江戸幕府は遷都の対象にはならないようです。

さて、わが国の遷都を地図上に表してみますと以下のようになります。




7,8世紀に偏っています。

8世紀以降は、「首都機能」はいろいろ移り変わりましたが、王宮は平安京にほぼ固定していました。だからと言って、国は決して安定していたわけではありません・・・。

【飛鳥清御原宮】
王位に対向する蘇我氏を倒し、大化改新で律令制が布かれ、全国を統治した天武天皇は、政治の拠点として、672年に飛鳥清御原宮を造営しました。

都とは言いがたい様相のようでしたが、しかし、日本国の始まりです。

【藤原京】
694年(持統8)、夫・天武天皇の意思を継ぎ、当時7歳の幼帝に代わって帝位に着いた妻・持統天皇(女帝)が、耳梨山(140m)、畝傍山(199m)、天香具山(152m)の三山に取り囲まれた地に日本最初の都といえるものを造営しました。そして、持統・文武・元明 3天皇の16年間が続きました。

しかし、人口が増えるに従い、都心が川下に位置していたため、排水・排尿の不都合と、水上交通の便が悪いため、早くも10年を経ずして遷都を考えざるを得なくなりました。

【平城京】
平城京への遷都は、文武朝後半の全国的な飢饉疫病の厄払いや、排水・排尿の不都合解消、それに交通の便のためなどといろいろ言われていますが、
どうも、遣唐使がもたらした唐の長安の都城の情報の影響が大きかったのではと思います。

その遷都も、文武天皇病死と皇子未だ7歳のため、一時中止されていましたが、
代わって祖母=元明(女帝)が即位し、本格的な都を造営することになりました。

遷都は710年で、今年は「平城京遷都1300年」だそうです。

「平城京」の言葉の由縁は、藤原京より広い奈良盆地に位置し、「奈良」=なるい、平らな土地から、「平らな土地の都城」と言うことからのようです。

【長岡京】 
長岡京は桓武天皇の命により、平城京から北へ40kmの長岡の地に遷都し、平城京の地理的な不都合を解決しようとしました。

すなわち、
長岡京には川が3本流れ、平城京より、船で効率よく物資を運ぶことができます。
なんたって、全国から、租・庸・調が運び込まれていたわけですから・・・。
平城京は陸路に頼らざるを得なかったのですから。

また、平城京の下水・排水の不都合さにも対策が立てられ、道路脇に流れる水を家の中に引き込み、排泄物が流れるようにしました。垂れ流しの水洗便所ですか・・・?

さらには、既存仏教勢力や貴族勢力から距離を置き、その影響をのがれることを画策しました。そのことが結構大きな要因では・・・?

当時、堕落を極めた坊主(例えば道鏡)や貴族の巣窟と云われていた平城京を脱することは、「官を省き、役を息(や)める」、所謂、今日の「事業仕分け」のようなことですか・・・。

そのことから、桓武天皇は781年6月に遷都を工事を始め、11月にはもう、引き遷ってしまわれたのです。
いかに、遷都妨害が激しかったかの現れでしょう。

それともう一つ、長岡京遷都作業の中心人物=藤原種継が暗殺され、その首謀者と見做された大伴家持、そして家持に引き立てられていた早良王子らが命を落とす羽目になった。

以前から、天智天皇系の桓武天皇には、当時大勢力だった天武天皇系の早良王子や大伴家持は煙たい存在であったようです。

そのた祟りといわれていますが、その後、次々と災厄が起こり、わずか10年で平安京へ遷都することになりました。

桓武天皇は一代で二度遷都したことになります。
その上、北の蝦夷征伐にも大変な量の「庸」(人頭税)を集めたようですから、よくぞ持ちこたえたものです。

【平安京】 
794年(延暦13年)に、平安京に遷りました。
主たる理由は、身近な祟りを祓う意図です。
この遷都には、和気清麻呂が与かっています。

長岡京への遷都を途中で止め、急遽平安京に方向変換したのは、清麻呂の献策や、東北での蝦夷との戦いや、日夜の怨霊に悩まされたための,思い切った脱皮ではないでしょうか。

どなたかの歴史小説があれば読んでみたいですね。

下の地図は地勢を土台にした遷都のあらましです。


私は、受験準備で、遷都の年号を、「ボウズガ、ナクヨ=794」と覚えましたが、大和の仏教勢力は、大変政治への干渉が強く、それを排除するため遷都をしたように覚えています。

遷都に際し、都の傍の川沿いには、港を整備し、食料や物資を安定供給できるようにし、人口増加に対応できるようにしました。

また、長岡京での洪水対策として、東西に水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給と水量をコントロールがきるようにしました。

さらには、災厄を克服するため、長岡京では認めなかった仏教寺院の建立を認め、仏教の知識と能力に優れ、かつ、政治権力とは無縁の僧・最澄、空海を迎え、都を災厄から守ろうとしました。

ここに、本格的な、長期にわたり存続しうる都を造ろうとしたのです。

【東京】  

そして、明治天皇 1868年 明治維新により東京へ。





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