鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や  想い出の修学旅行の地を 訪ねる

2020-10-12 19:51:33 | 旅行
鉄ちゃん爺やの若い頃は小学校の修学旅行は伊勢神宮と鳥羽辺りで1泊。

中学校の修学旅行は四国の香川県かもしくは東京見物のどちらか。

高等学校の修学旅行は長崎から熊本を経由して別府が多かったはず。

今回は中学校の修学旅行の地を訪ねて見ました。

(天保山の 明治天皇観艦之所碑)


明治元年に明治天皇がこの丘から新政府の軍艦6隻を観艦したとか
記念碑が戦前からここに建てられていたようですわ。

当時はこの碑の以外は何もない単なる盛り土の山でしたんや。

この記念碑は何故かはっきりと見た記憶が残ってまんねん。

(天保山の絵図)


当時は瀬戸大橋が無い時代なので大阪から四国へは
天保山桟橋から高松港への船旅がメインでしたんや。

1956年(昭和31年)の古いお話でご免なさいね。

最初の画像の記念碑を左手に観ながら天保山桟橋を船出して
関西汽船か加藤汽船で高松港まで約7時間ぐらいの旅でしたかな。

勿論、2等船室で雑魚寝のような船旅でしたで。

気分が悪いとか言って甲板に出たような悪知恵の子供でしたけど。

(天保山公園)




大きな観覧車が有る辺りが当時は天保山桟橋の有った場所のはず。

この公園が出来たのが1958年(昭和33年)でっさかいに
当時は単なる標高7mぐらいの盛り土の山が天保山でしたかな。

現在は標高4.5mの二等三角点がある日本で二番目に低い山だとか。

東日本大震災で新しく宮城県の日和山に第一位を譲ったそうですわ。

戦後の地盤沈下で約3m近く天保山は低くなってしまったんだって。

(天保山公園の桜と 観覧車)


(天保山公園の 二等三角点)(標高4.5m=国土地理院認定)


現在は新幹線でJR岡山駅まで約1時間で、在来線の快速に乗り換え
瀬戸大橋を越えてJR高松駅までは約1時間少々ですかな。

現在も神戸港から高松港までフェリーは運航しているようですけど。

天保山桟橋は1965年(昭和40年)頃に弁天ふ頭に変わり廃止だったかな。

(JR岡山駅舎と 桃太郎の銅像)


(JR瀬戸大橋線を走る 快速マリンライナー)


鉄ちゃん爺やの中学校の修学旅行の際は朝の9時前後に天保山桟橋を出て
夕方の4時ごろに高松港に到着したような記憶がしますんや。

まだ太陽は沈んでなかったので高松の港は良く覚えてますよ。

(高松琴平電気鉄道の車両)


確か高松港で船から下船して徒歩で琴平電鉄の駅まで歩いたような記憶。

通称は現在も琴電(ことでん)の名前で高松市近郊で活躍してますんや。

高松港駅から琴平駅まで約32kmですので約1時間ぐらい走ったのかも。

(高松琴平電気鉄道 琴平駅舎)(昭和63年 改築)


当時は2階建ての木造駅舎だったような記憶がしますが定かじゃおまへん。

ここから集団で歩いて約1km先の旅館に向かったはずだが記憶が途切れてまぁ。

(旅館 備前屋)




土産物店に変ってますが外観は当時の面影が残ってますんや。

この2階で宿泊し同級生と枕投げをして担任の先生にドヤされた記憶が。

7年前に近くの旅館に泊まり備前屋さんの外観が当時のままと聞きました。

(琴平の酒造メーカー 金陵の清酒)


備前屋さんのお向かいの店で義父が若い頃に2年間だけお世話になったとか。

お酒を飲めない義父はそのまま大阪へ出て商売を始めたと生前に聞いた話。

備前屋で1泊した鉄ちゃん爺や達は翌日は金毘羅宮に参拝した記憶がおます。

(金比羅さんの 提灯)


(金毘羅宮への参道)






1378段有るんでしたかな、当時は若いので楽々と登ったような記憶。

7年前に参拝した時は息切れしながら本殿にたどり着きましたかな。

(金毘羅宮の拝殿)


(金毘羅宮から 讃岐平野を眺める)


(薄っすらと見えるのは 讃岐富士です)


(琴平町の マンホールの蓋)


金刀比羅宮を終えてバスで移動したのか琴電で移動したのかが不明。

次に残っている記憶は丸亀城の天守閣の側を通過したような感じ。

日本で一番高い石垣によるお城だと教えてもらったかな?

(丸亀城の天守閣を 遠くに眺める)


(丸亀城の大手門)


(JR丸亀駅 駅名標)


(丸亀の名物 うちわ)


江戸時代から金比羅宮への街道ですので「〇金」のデザインですよね。

可能性としては観光バスで高松市内へ向かったのが正しいのかも?

何せ次は讃岐富士が見えたところまで記憶が飛んでますんや。

(車中より 讃岐富士を撮影)


飯野山が正式なようですが讃岐富士と呼ぶ方が多いようにきいてまぁ。

標高は421mと低いですが周囲に高い山が無いことも有って
丸亀市と坂出市の境に聳えて、美しい姿を見せてまっしゃろ。

確か疲れて、うとうとと、していたような気もしますんですわ。

(高松市内の名勝  栗林公園)






(栗林公園の 正門)


当時は若い学生ですから公園なんて興味がおまへんがな。

何だか、だだっ広い公園だなぐらいしか考えなかった感じ。

栗林公園の近くで昼食を済まして次は屋島へ向かったはず。

(高松港から 屋島を眺める)




現在はこじんまりとした高松港ですが当時は四国へのメインルート。

国鉄の貨車も全てが宇高連絡船で対岸の岡山県の宇野港と繋がり
乗客も宇高連絡船で必ず高松港と宇野港で乗り換えが必要でしたんや。

松山駅や高知駅や徳島駅への国鉄も高松駅が起点に成ってましたんでっせ。

現在は瀬戸大橋が開通して昔より寂れた感じがしますんや。

(高松港の西灯台)


鉄ちゃん爺やが修学旅行で高松港に着いたのは1956年(昭和31年)

実は前年の1955年(昭和30年)5月に高松港の少し先で濃霧の為に
「紫雲丸」と「第三宇高丸」が衝突して「紫雲丸」が沈没し
修学旅行生など166名と船長他1名が水死する大事故がおましたんや。

前年の北海道の「洞爺丸」の沈没と合わせて船の大事故が連続したんでっせ。

関西でも四国への修学旅行が危険だとなり鉄ちゃん爺やの次の学年から
国鉄で東京見物に変更する学校が大半となったようですわ。

丁度、ひので号 や きぼう号の修学旅行専用列車が出来ましたんや

鉄ちゃん爺や達は既に予約も終わっていたので四国へ向かった感じ。

帰りの夜間の船で大阪へ戻るときは不安な気分がしましたんですわ。

(JR高松駅 駅舎)






(高松市の マンホールの蓋)


有名な源平の屋島の戦いで那須与一が平家方の軍船から
示された扇の的を射落とした伝説の一コマを描いてるようでんな。

(高松城址公園)




当時は高松城は復元されてなかったように思いますけど。

それでは修学旅行の最終地点の屋島へ向かうことにしまひょ。

(JR高徳線 屋島駅 駅名標)


(高松琴平電気鉄道 屋島駅舎)


ここから当時はケーブルカーで屋島へ登ったように記憶しまぁ。

2013年(平成25年)に訪れた際にはケーブルカーは廃止されてました。

(屋島へ登る ドライブウエーから撮影)


(屋島から 対岸の五剣山を望む)


ここで修学旅行の際は集合写真を撮ったはずで、自宅のアルバムを
探してみましたが残念ながら見当たらなかったんですわ。

画像に見える入り江が源平の屋島の戦いの古戦場になりますんや。

(屋島から 瀬戸内海を撮影)






(屋島から 高松市内を撮影)


(瀬戸内海の 大槌島を遠くに望む)


大槌島は三角形の見分けやすい島で、鉄ちゃん爺やは夏休みに
岡山県側の渋川海水浴場に従兄を訪ねて良く訪れていたんですわ。

従兄の話でこの大槌島は香川県と岡山県の境界になっているとか。

画像の向かって左半分が香川県で右半分が岡山県になるんだって。

江戸時代からの讃岐藩と備前藩の領土争いがそのまま残っているとの話。

晴れていればその向こうに瀬戸大橋が見えるんですがこの日は
天候が悪く、大槌島までしか見えなかったんですわ。

(屋島の 観光用看板)


修学旅行はここから下山して高松港に集合したように記憶しまぁ。

カレーライスが夕食だったけど、船の中だったかそれとも
高松港の近くの食堂だったかは残念ながら記憶が薄れてますな。

夜の8時ごろに高松港を出港して途中で時間調整をしたんでしょうが
翌日の6時ごろに天保山桟橋に到着したように思いますんや。

当時の修学旅行は現地で十分な見学時間を取り夜行の船や
国鉄で大阪へ戻ると言うのが普通のパターンでしたかな。

ほな~ これで 今日はお仕舞にしまひょ。

さいなら~♪

コメント (23)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする