鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

錦織神社をデジカメ散歩

2017-01-21 18:49:06 | 神社
南河内の山々から水を合わせ大きな川となる。

大和川水系の一番大きな支流を「石川」と
呼びますんや、我が町の東側を流れてお隣の
藤井寺市と柏原市で大和川に合流しますんや。

(羽曳野大橋から 石川の上流を撮影)


遠くに見える山並みは向かって右側が「金剛山」
左側が「葛城山」山の向こうは奈良県になりまぁ。

手前に見える丘陵が「源頼朝」のご先祖になる
「河内源氏」発祥の地で、当時は石川郡壷井郷。

現在も「河内源氏三代」の墓が残されてまっせ。

反対の下流側を撮影したらこんな感じですわ。

(羽曳野大橋から 石川の下流を撮影)


ここから約3kmぐらいで大和川に合流しますんや。

現在の大和川は西へ流れて大阪湾へ注いでまっけど
江戸時代の元禄時代までは、北西に流れ下り三つに
別れて大きな湿地帯と沼か池を造っていたそうですわ。

最後は淀川と合流しながら大坂城を巻くようにして
中之島から大阪湾へと流れてたそうですわ。

(石川を背景にして 自分撮り)


中世には「石川」も水量が豊富だったので当時は
京都から船で淀川と大和川を遡り1~2日ぐらいで
ここ、石川郡の壷井郷まで来れる感じになるんだとか。

騎馬で走れば一日で京都の地に辿りつくことも可能。

だから「河内源氏」の源頼義や源義家はこの地で
京都の情勢を把握できる、安全地帯でもあったとか。

それじゃ、ここから4kmほど石川を遡上しまひょ。

(南阪奈の 高速道路を通過)


ここを通過したら我が町から、次は富田林市でっせ。

この街も中世の末から栄えた寺内町が残ってますんや。

底の浅い船なら昔は富田林まで遡上できたとのこと。

(富田林市の マンホールの蓋)


最初の画像で紹介した金剛山と葛城山を背景にして
富田林の寺内町が描かれているようでんな。

ツツジが描かれているのは町の花を意味するのかな。

それでは「石川」を離れて「錦織神社」へ行きまひょ。

(郷社 錦織神社の石碑)


(錦織神社 石の鳥居)


毎年ながら2月に確定申告の為に、この前を通過して
近くに有るスバルホールの会場へ行くんですわ。

往復の電車賃が460円、昔は税務署だったから
自転車で行けたのに、ここまでは片道約6kmかな。

郷社と記されているから、村の鎮守さんかな?

たいした神社でもないだろうと、勝手な判断を。

そんな訳で拝殿まで行ったことが無かったんですわ。

(錦織神社の 由来書き)


テニスの錦織圭選手が有名になり、名前が同じ神社。

話の種になるかなと、初めて参詣することにしました。

錦織神社のHPでも錦織圭選手を応援してます~🎵

こんなのも最近でっけど、見つけましたんや。

(錦織神社の参道)


約150mぐらい続く立派な参道でっしゃろ。

処で「錦織神社」にフリガナを付けまへんでした。

実は「錦織」の読み方が4~5種類もおますんや。

富田林市の地名では「錦織=にしきおり」ですわ。

内の奥さんに聞けば昔から地元では「にしこおり」と
呼んででいたよと、話を聞いたこともある。

HPで調べたら「にしこり」「にしごり」とか
地元でも、呼び方がバラバラなのには驚き!

テニスの錦織圭(にしこりけい)さんだったよね。

オペラ歌手は錦織健(にしきおりけん)さんのはず。

(錦織神社の 境内図)




高級な綾織りや錦織りを得意とした「錦織氏」が
滋賀県と共にここ南河内にも住み着いたとの説。

「錦織氏」の氏神さんだったのかもしれまへんな。

我が町も「西文氏=かわちのふみし」が渡来して
文字を日本に伝えたとの説があるんでっせ。

西暦の5世紀~7世紀に掛けて朝鮮や中国から
多くの渡来人がここ南河内に移り住んだそうですわ。

(錦織神社の神門 & 狛犬)


Wikipediaでは「錦織神社=にしきおりじんじゃ」

大阪神社庁のHP「錦織神社=にしこおりじんじゃ」

文化庁のデーター「錦織神社=にしごおりじんじゃ」

富田林市のHPではご丁寧にもカナがふってまへんわ。

どれが本当なのか、誰も断定が出来ないという事か?

(国の重要文化財 表示板)


(錦織神社 本殿)




郷社の神社とは思えない、これは立派なお社でっせ。

再建が南北朝時代の西暦1363年(正平18年)
約650年も昔に造られた本殿だったとは驚き!

河内の国は南北朝から戦国時代まで戦乱に明け暮れ
南北朝時代の建物が残っていたとは半信半疑でした。

HPで確認しても、南北朝時代の建築でしたわ。

平安時代中期の瓦が出土もしているんだって。

正面から見たら唐破風(からはふう)の上に
三角形の千鳥破風(ちどりはふう)の屋根を
重ねた入母屋造り(いりもやつくり)の構造に
なっているのが分かりまっしゃろか。

江戸時代には良く見られるが南北朝時代には
珍しい「錦織造り」と呼ばれているんだって。

日光の東照宮に影響を与えたとの説がおます。

そんな立派な神社だったのかと反省した次第。

(参道に 天誅組河内勢 顕彰碑)


明治天皇の叔父に当たる中山忠光を盟主に仰ぎ。

明治維新の直前に決起したれども、紀州藩や
津藩との戦闘に敗れて悲運の死を遂げた60名。

河内勢で60名の名前が刻まれていますんや。

決起するのが数年早かったという結果でしたな。

戻ってからHPを見たら毎月の1日と15日に
拝殿の扉が開かれて、本殿の側まで入場できると。

次回は、見事な彫刻や朱塗りの本殿をデジカメで
撮影に来ようかなと考えたんですわ。

今回は垣根の外からの撮影でお仕舞でしたわ。

ちなみに関東では小田原市の錦織神社が、最近は
錦織圭選手を応援する神社として人気だとの話。

他には長野県の松本市や岡山県の久米郡などにも
同じ名前の「錦織神社」が存在するようでっせ。

でも、富田林市の「錦織神社」が全国では一番
立派な神社だと考えて良いんじゃないのかしら。

錦織圭選手がここを訪れたとは聞いてまへんけど。

ほんなら、今日はこれで、さいなら~🎵

































コメント (11)
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