今回は有名な「ひめゆりの塔」を紹介しまひょ。
8月15日 終戦の日 (本土)
6月23日 終戦の日 (沖縄県)
沖縄県では毎年6月23日が終戦の日として
官公庁や企業はお休みになりまんねんで。
この日は沖縄戦で指揮を取った第32軍の司令官
牛島満中将と 長参謀長が自決した日だそうです。
沖縄が組織的な抵抗を止めてアメリカ軍に負けた日。
6月23日は毎年ながら日本の総理大臣も参列し
沖縄本島の南端になる「摩文仁の丘」に在る
平和祈念塔で盛大な慰霊祭が行われますんや。
「摩文仁の丘」は沖縄戦最後の激戦地でアメリカ軍の
戦車に日本兵が爆雷を持って体当たりした場所です。
牛島中将の最後の司令部はここに置かれていました。
(平和祈念公園への標識) (南風原北IC出口付近)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
現在の沖縄自動車道の南風原北(はえばるきた)ICの
西側の小高い丘に横穴を掘って陸軍病院が造られました。
画像の右手ぐらいになりますんやろな。
1945年(昭和20年)3月に「ひめゆり学徒隊」は
ここ南風原(はえばる)の陸軍病院へ送り込まれたそうな。
当時、県立第一高等女学校と併設されていた師範学校の
女子部の生徒222名と教員18名だったとか。
元々は両校の「乙姫」「白百合」という高友誌から採用し
「白百合学徒隊」と言うのが当時の名前だったそうですわ。
(1945年4月1日) (アメリカ軍上陸地点)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(読谷村=よみたんそん 現在はホテル日航アリビラ付近)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
残波岬(ざんばみさき)を目標にアメリカ軍約16万人が
現在はリゾート海岸や高級ホテルが並んだこの海岸へ上陸。
お隣の嘉手納(かでな)村から北谷(ちゃたん)村に掛けて
展開し日本軍の司令部の在る首里城へ向かった訳でんな。
日本軍は水際で迎え撃っては被害が多いので少数の兵員しか
置いていなかった訳で、ほぼ無血上陸だったとの話。
(首里北方の 丘陵地帯) (沖縄県中城村=なかぐすくそん)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
現在、話題の多い普天間飛行場を見下ろす丘の付近から南へ
首里城まで日本軍は前方100mまでアメリカ軍が近づくのを
待つまで、一切の射撃をしないという作戦を考えたようでんな。
丘陵地帯に横穴を掘ってこの当時の日本軍には珍しいほどの
大砲を据え付けてアメリカ軍を待ち構えたようでっせ。
ここから首里城までは10km~20kmぐらいしかおまへん。
4月8日から日本軍の猛烈な反撃が始まりアメリカ軍は
この主要陣地を抜いて首里城を占領したのが、なんと
二ヶ月後の5月31日だったと記録されてますんや。
5月末になって首里城の司令部も南へ退却を初めたようで
「ひめゆり学徒隊」の女学生も歩ける負傷兵と共に
現在の糸満市伊原へ移動のやむなきに至ったとか。
動けない重傷者には青酸カリを渡されて自決をするように
命令がだされたとの事ですわ。
(ひめゆりの塔への入口)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(沖縄陸軍病院第三外科壕)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
立派な石碑が立てられてまっけど、ようするに地元では
ガマと呼ばれる自然洞窟に逃げ込んだちゅうことでんな。
こんなガマが沖縄本島の南部には多く存在し沖縄戦の
後半には住民を追い出して軍人が占拠したようでんな。
または民間人と同じ洞窟に入り泣く赤児を絞め殺せと
母親に命令したり悲惨な状況が見られたようですわ。
ひめゆり学徒隊も分散しこの第三外科壕には45名と
負傷兵や軍医や民間人合せて80数名が潜んでいたとか。
(ひめゆりの塔 & 第三外科壕)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
6月18日になり陸軍はひめゆり学徒隊を含む
民間防衛隊に解散命令を出しますんや。
要は、もはや陸軍としては責任が持てないので
自由に行動せよとの無責任な話でんがな。
アメリカ軍は既に近くまで接近しているので
民間人が脱出できるような状況ではなかったはず。
(ひめゆり学徒隊他 75名死亡)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
6月18日の解散命令がでた翌日にアメリカ軍が
この地下壕を発見し、出てこい! と言ったが
出てこないので黄燐手榴弾を投入した。
ひめゆり学徒隊35名を含む75名がこの攻撃で
死亡し軍医1名とひめゆり学徒隊4名が奇跡的に
脱出し戦後まで5名しか生き延びれなかったんだって。
その他のひめゆり学徒隊もアメリカ軍に追われて
最南端の断崖から身を投げたり自決されたとか。
(ひめゆりの塔) (1946年の戦後に設置)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
有名な「ひめゆりの塔」は本来この地下壕の右手に
高さ30cmぐらいの画像の小さい石碑を言うんですよ。
この石碑は1946年(昭和21年)に遺族や関係者が
アメリカ軍に配慮して目立たないように小さい石碑を
ここに立てたのが沖縄での供養塔の最初だったとか。
(ひめゆり平和祈念資料館)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
戦後も10数年が経ち「ひめゆり学徒隊」の遺族や
関係者によって、彼女らの遺品や手紙などが集められ
ここに悲惨な最後を遂げた226名の女学生や教員の
真実を戦後の若い人に知ってもらう為に設立された。
10年前までは生き残りの女性のお話が聞けたそうですが
現在はご高齢で、映像だけが館内に映されていました。
このひめゆり平和祈念資料館の建物は
当時の沖縄師範学校と県立第一高等女学校の校舎を
模して建てられたと伝えられていますんや。
(ひめゆりの塔 説明書きの石碑)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
戦争を経験しなかった私たちが、とやかく言えないけれど
この悲惨な戦争の事実は伝えられるべきでしょうね。
独断と偏見ながら5月末の第32軍の首里城放棄の時点で
牛島中将以下が自決しておれば民間人の死亡はおそらく
半分以下で留まったと考えらえます。
南の端である「摩文仁の丘」まで退却しながら徹底的に
アメリカ軍に抵抗することを命令したのが悔やまれます。
6月18日になってから解散命令が出された結果が
その後の一週間で「ひめゆり学徒隊」の戦没者の
7割が死亡しているのは残念の極みですな。
もし5月末の時点で解散命令が出されておれば
沖縄本島の北側へ脱出も可能であり沖縄県民の
約9万人を超える戦没者の半数は生き延びれた
可能性が有ったと考えてしかるべきかもしれません。
(陸軍病院職員の碑 側に供えられた千羽鶴)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
確かに日本本土への侵攻を遅らせる為の遅延作戦は
大本営が考える以上にアメリカ軍に大きな損害を与え
死者12520名 負傷者72012名という数字。
加えてアメリカ軍上陸最高司令官である
サイモン・バックナー中将の戦死まで生み出しています。
それにしても日本軍人・軍属94136名に加えて
沖縄県民約94000名以上それに記録に残らない
朝鮮人等約1万人以上の戦死は大きな数字ですな。
(沖縄戦殉職医療人之碑)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
実は沖縄本島南部には「ひめゆりの塔」以外にも
多くの慰霊碑や祈念碑が立てられています。
でも映画化されて戦後有名ななった「ひめゆりの塔」の
他は訪れる観光客は殆ど居ないのが現状ですな。
県立第二高等女学校生で結成された「白梅学徒隊」
県立首里高等女学高生で結成された「瑞泉学徒隊」
沖縄の男子中学生で結成された「鉄血勤皇隊」
これらの多くの14歳~17歳までの若き男女が
1780名中で890名も戦死者をだしてますんや。
死亡率50%は軍隊でも珍しい比率だそうでっせ。
これらの慰霊塔も「ひめゆりの塔」から半径3km以内に
多くが存在するも観光用パンフレットも無視のようでんな。
(沖縄自動車道 沖縄戦の激戦地)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
知られていない、こんな逸話を書き込ませて頂きます。
1945年6月6日 全滅を目前にして海軍部隊の
最高指揮官であった大田実 海軍少将が 夜半に
東京の海軍次官に最後の電報を打っておられます。
「県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ 後世 特別ノ
御高配ヲ賜ランコトヲ」
この民間人を巻き込んで大きな被害を出した
沖縄県に戦後は特別の配慮を求めた言葉ですね。
だが戦後になって左翼系の政党から軍部に対し
協力したことを極端に非難する言論に
大田少将の遺言は日本人に理解されなかった。
残念ながら今の日本本土の国民が沖縄県民が
先の大戦で受けた苦しみに答えていない
そんな感じを強く受けた鉄ちゃん爺やでした。、
(めんそ~れ)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
沖縄の方言で「ようこそ~ いらっしゃいました」
最後にバスガイドさんが教えて下さった逸話を
書き込ませて頂きます。
2012年に沖縄戦に参加されたアメリカ軍の少尉が
亡くなる際に持ち帰った「少将旗」を遺族を探し
返還するように伝えて亡くなられたそうですわ。
この旗が沖縄の豊見城付近で戦死された大田少将の
陣内に置かれていた海軍の少将を示すものだった。
大田少将の三男で海上自衛隊にも勤務されて中東の
湾岸戦争にも参加された「落合氏」が該当し
沖縄のアメリカ軍基地で返還がされたんだって。
「落合氏」は沖縄戦の数少ない海軍の資料として
現在は浦添市? に寄贈されて保管されているとか。
戦後60数年を経過し恩讐を超えて日米の遺族が
会見するという光景が見られたそうです。
地元を初め、ほとんどのマスコミは報道すら
しなかったという沖縄は今でも戦争のことは
記事にしたくないトラウマが存在するようです。
今でも沖縄本島の3割以上がアメリカ軍の基地や
施設に専有されている厳しい状態にありますね。
沖縄に対して本土の我々がもっと配慮をし過去の
痛みや傷跡を癒してあげる必要がありそうですよ。
本日はこれにてお仕舞い。
次回はおきなわワールドや琉球村などを紹介しまひょ。
それじゃ これで、さいなら~♪
8月15日 終戦の日 (本土)
6月23日 終戦の日 (沖縄県)
沖縄県では毎年6月23日が終戦の日として
官公庁や企業はお休みになりまんねんで。
この日は沖縄戦で指揮を取った第32軍の司令官
牛島満中将と 長参謀長が自決した日だそうです。
沖縄が組織的な抵抗を止めてアメリカ軍に負けた日。
6月23日は毎年ながら日本の総理大臣も参列し
沖縄本島の南端になる「摩文仁の丘」に在る
平和祈念塔で盛大な慰霊祭が行われますんや。
「摩文仁の丘」は沖縄戦最後の激戦地でアメリカ軍の
戦車に日本兵が爆雷を持って体当たりした場所です。
牛島中将の最後の司令部はここに置かれていました。
(平和祈念公園への標識) (南風原北IC出口付近)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
現在の沖縄自動車道の南風原北(はえばるきた)ICの
西側の小高い丘に横穴を掘って陸軍病院が造られました。
画像の右手ぐらいになりますんやろな。
1945年(昭和20年)3月に「ひめゆり学徒隊」は
ここ南風原(はえばる)の陸軍病院へ送り込まれたそうな。
当時、県立第一高等女学校と併設されていた師範学校の
女子部の生徒222名と教員18名だったとか。
元々は両校の「乙姫」「白百合」という高友誌から採用し
「白百合学徒隊」と言うのが当時の名前だったそうですわ。
(1945年4月1日) (アメリカ軍上陸地点)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(読谷村=よみたんそん 現在はホテル日航アリビラ付近)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
残波岬(ざんばみさき)を目標にアメリカ軍約16万人が
現在はリゾート海岸や高級ホテルが並んだこの海岸へ上陸。
お隣の嘉手納(かでな)村から北谷(ちゃたん)村に掛けて
展開し日本軍の司令部の在る首里城へ向かった訳でんな。
日本軍は水際で迎え撃っては被害が多いので少数の兵員しか
置いていなかった訳で、ほぼ無血上陸だったとの話。
(首里北方の 丘陵地帯) (沖縄県中城村=なかぐすくそん)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
現在、話題の多い普天間飛行場を見下ろす丘の付近から南へ
首里城まで日本軍は前方100mまでアメリカ軍が近づくのを
待つまで、一切の射撃をしないという作戦を考えたようでんな。
丘陵地帯に横穴を掘ってこの当時の日本軍には珍しいほどの
大砲を据え付けてアメリカ軍を待ち構えたようでっせ。
ここから首里城までは10km~20kmぐらいしかおまへん。
4月8日から日本軍の猛烈な反撃が始まりアメリカ軍は
この主要陣地を抜いて首里城を占領したのが、なんと
二ヶ月後の5月31日だったと記録されてますんや。
5月末になって首里城の司令部も南へ退却を初めたようで
「ひめゆり学徒隊」の女学生も歩ける負傷兵と共に
現在の糸満市伊原へ移動のやむなきに至ったとか。
動けない重傷者には青酸カリを渡されて自決をするように
命令がだされたとの事ですわ。
(ひめゆりの塔への入口)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(沖縄陸軍病院第三外科壕)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
立派な石碑が立てられてまっけど、ようするに地元では
ガマと呼ばれる自然洞窟に逃げ込んだちゅうことでんな。
こんなガマが沖縄本島の南部には多く存在し沖縄戦の
後半には住民を追い出して軍人が占拠したようでんな。
または民間人と同じ洞窟に入り泣く赤児を絞め殺せと
母親に命令したり悲惨な状況が見られたようですわ。
ひめゆり学徒隊も分散しこの第三外科壕には45名と
負傷兵や軍医や民間人合せて80数名が潜んでいたとか。
(ひめゆりの塔 & 第三外科壕)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
6月18日になり陸軍はひめゆり学徒隊を含む
民間防衛隊に解散命令を出しますんや。
要は、もはや陸軍としては責任が持てないので
自由に行動せよとの無責任な話でんがな。
アメリカ軍は既に近くまで接近しているので
民間人が脱出できるような状況ではなかったはず。
(ひめゆり学徒隊他 75名死亡)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
6月18日の解散命令がでた翌日にアメリカ軍が
この地下壕を発見し、出てこい! と言ったが
出てこないので黄燐手榴弾を投入した。
ひめゆり学徒隊35名を含む75名がこの攻撃で
死亡し軍医1名とひめゆり学徒隊4名が奇跡的に
脱出し戦後まで5名しか生き延びれなかったんだって。
その他のひめゆり学徒隊もアメリカ軍に追われて
最南端の断崖から身を投げたり自決されたとか。
(ひめゆりの塔) (1946年の戦後に設置)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
有名な「ひめゆりの塔」は本来この地下壕の右手に
高さ30cmぐらいの画像の小さい石碑を言うんですよ。
この石碑は1946年(昭和21年)に遺族や関係者が
アメリカ軍に配慮して目立たないように小さい石碑を
ここに立てたのが沖縄での供養塔の最初だったとか。
(ひめゆり平和祈念資料館)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
戦後も10数年が経ち「ひめゆり学徒隊」の遺族や
関係者によって、彼女らの遺品や手紙などが集められ
ここに悲惨な最後を遂げた226名の女学生や教員の
真実を戦後の若い人に知ってもらう為に設立された。
10年前までは生き残りの女性のお話が聞けたそうですが
現在はご高齢で、映像だけが館内に映されていました。
このひめゆり平和祈念資料館の建物は
当時の沖縄師範学校と県立第一高等女学校の校舎を
模して建てられたと伝えられていますんや。
(ひめゆりの塔 説明書きの石碑)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
戦争を経験しなかった私たちが、とやかく言えないけれど
この悲惨な戦争の事実は伝えられるべきでしょうね。
独断と偏見ながら5月末の第32軍の首里城放棄の時点で
牛島中将以下が自決しておれば民間人の死亡はおそらく
半分以下で留まったと考えらえます。
南の端である「摩文仁の丘」まで退却しながら徹底的に
アメリカ軍に抵抗することを命令したのが悔やまれます。
6月18日になってから解散命令が出された結果が
その後の一週間で「ひめゆり学徒隊」の戦没者の
7割が死亡しているのは残念の極みですな。
もし5月末の時点で解散命令が出されておれば
沖縄本島の北側へ脱出も可能であり沖縄県民の
約9万人を超える戦没者の半数は生き延びれた
可能性が有ったと考えてしかるべきかもしれません。
(陸軍病院職員の碑 側に供えられた千羽鶴)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
確かに日本本土への侵攻を遅らせる為の遅延作戦は
大本営が考える以上にアメリカ軍に大きな損害を与え
死者12520名 負傷者72012名という数字。
加えてアメリカ軍上陸最高司令官である
サイモン・バックナー中将の戦死まで生み出しています。
それにしても日本軍人・軍属94136名に加えて
沖縄県民約94000名以上それに記録に残らない
朝鮮人等約1万人以上の戦死は大きな数字ですな。
(沖縄戦殉職医療人之碑)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
実は沖縄本島南部には「ひめゆりの塔」以外にも
多くの慰霊碑や祈念碑が立てられています。
でも映画化されて戦後有名ななった「ひめゆりの塔」の
他は訪れる観光客は殆ど居ないのが現状ですな。
県立第二高等女学校生で結成された「白梅学徒隊」
県立首里高等女学高生で結成された「瑞泉学徒隊」
沖縄の男子中学生で結成された「鉄血勤皇隊」
これらの多くの14歳~17歳までの若き男女が
1780名中で890名も戦死者をだしてますんや。
死亡率50%は軍隊でも珍しい比率だそうでっせ。
これらの慰霊塔も「ひめゆりの塔」から半径3km以内に
多くが存在するも観光用パンフレットも無視のようでんな。
(沖縄自動車道 沖縄戦の激戦地)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
知られていない、こんな逸話を書き込ませて頂きます。
1945年6月6日 全滅を目前にして海軍部隊の
最高指揮官であった大田実 海軍少将が 夜半に
東京の海軍次官に最後の電報を打っておられます。
「県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ 後世 特別ノ
御高配ヲ賜ランコトヲ」
この民間人を巻き込んで大きな被害を出した
沖縄県に戦後は特別の配慮を求めた言葉ですね。
だが戦後になって左翼系の政党から軍部に対し
協力したことを極端に非難する言論に
大田少将の遺言は日本人に理解されなかった。
残念ながら今の日本本土の国民が沖縄県民が
先の大戦で受けた苦しみに答えていない
そんな感じを強く受けた鉄ちゃん爺やでした。、
(めんそ~れ)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
沖縄の方言で「ようこそ~ いらっしゃいました」
最後にバスガイドさんが教えて下さった逸話を
書き込ませて頂きます。
2012年に沖縄戦に参加されたアメリカ軍の少尉が
亡くなる際に持ち帰った「少将旗」を遺族を探し
返還するように伝えて亡くなられたそうですわ。
この旗が沖縄の豊見城付近で戦死された大田少将の
陣内に置かれていた海軍の少将を示すものだった。
大田少将の三男で海上自衛隊にも勤務されて中東の
湾岸戦争にも参加された「落合氏」が該当し
沖縄のアメリカ軍基地で返還がされたんだって。
「落合氏」は沖縄戦の数少ない海軍の資料として
現在は浦添市? に寄贈されて保管されているとか。
戦後60数年を経過し恩讐を超えて日米の遺族が
会見するという光景が見られたそうです。
地元を初め、ほとんどのマスコミは報道すら
しなかったという沖縄は今でも戦争のことは
記事にしたくないトラウマが存在するようです。
今でも沖縄本島の3割以上がアメリカ軍の基地や
施設に専有されている厳しい状態にありますね。
沖縄に対して本土の我々がもっと配慮をし過去の
痛みや傷跡を癒してあげる必要がありそうですよ。
本日はこれにてお仕舞い。
次回はおきなわワールドや琉球村などを紹介しまひょ。
それじゃ これで、さいなら~♪