K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

2月度 信長公記を読む会

2018年02月09日 | 講座・会合

2月6日(火)10時から信長公記を読む会がありました。寒さが続いたせいでしょうか、出席者はいつもより少なく17名でした。

テキストは巻八(六)禁中において親王様御蹴鞠遊ばさるるの事(瀬田橋懸けさせらるるのこと)の7月6日の段から。上・下京衆が信長のため能八番をお目にかけたという話。足利義昭はまだ将軍職にあるとはいえ、信長を天下人とみている証だ。義昭の将軍となった祝賀の宴では当初能十三番が予定されていたが、信長の鶴の一声で五番につづめられたことがあったが、五番より多く十三番より少なく縁起の良い八番という数を選んだのだ。

続いて瀬田川架橋のための立柱式が7月12日に行われた。幅4間、長さ180間の丈夫な橋を架けるのだが太田牛一は為政者としての信長の慈悲深さを言っているが、交通、物流と同時に軍事目的もあったに違いない。

続いて(七)越前御進発、賀越両国仰せ付けらるるとの事 にはいる。いよいよ8月12日からの越前一向一揆討伐の段だ。

本文に入る前に砂川先生は往時の越前の状況について 本文巻七(二)前波生害、越前一揆蜂起の事 を復習するとともにレジュメを用いて整理された。

前波吉継の生害のあと、加賀一向一揆の支援のもと越前民衆は富田(とだ)長秀を討つが、自分たちの思うようにしたいと思う越前民衆は越前を直轄地としようとする本願寺の家侍を攻撃。結果的には武力に勝る家侍が勝つが、本願寺の息のかかった寺院と門徒との内輪崩れが起きた。一年前には16万人だった一向衆はその時には6千7百人に減っていたのだ。

5月に武田勝頼との設楽が原の戦いに勝利した信長は3ヵ月後の8月12日に出陣するわけだが、レジュメの信長の書状や羽柴藤吉郎の添え書きをみると、6月から7月にかけて信長は①越前の地侍 ②日蓮門徒衆 ③本願寺と一線を画していた浄土真宗高田派など ④旧朝倉の家来 等を味方に付けるべく万全の調略を行っている事がわかる。

資料の地図を見ながらテキストを読み進めるが、武田攻めのときより1万人多い信長の軍勢(4万)にとって一向一揆討伐は敵ではなかったと言うべきなのだろう。

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