切り絵

浮世絵を切り絵に

広重 六十余州名所図会 上総 矢さしか浦

2017年04月25日 | Weblog

「上総 矢さしか浦 通名九十九里」

上総国は安房の北、下総の南にあたり、房総牛島の北部で、現在は千葉県に入っている。夷隅郡の東北端太東崎より下総海上郡飯岡に至る砂浜を九十九里浜という。海岸は遠浅で、汀線は湾曲して弓のようで、極めて単調な円弧を描いている。約五十六キロにわたる太平洋岸は鰯の地引網で栄えた。元和年(一六一五~二四)に紀州賀田浦の漁夫大甫七重郎がこの地に来て、地引網を使用したという。大漁を得れば、膏油をしぼり、日にさらして干鰮とし、その利益は大きかった。漁師の網を曳く様子を中心に、広々とした海岸と平野の一隅を描いている。

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広重 富士三十六景 相州三浦之海上

2017年04月14日 | Weblog

相州三浦之海上

 三浦半島の先端付近(現在の神奈川県三浦市)から富士山を望む図で、手前の張り出した岩場は城ケ島の様だ。相模湾の海面が広がり、画面中ほどの二艘の船には人の姿がごく小さく見えるが、表情やしぐさはうかがうことが出来ない。海の向こうには江の島、富士山の右手には大山が見える。富士山の裾野にたなびく雲は赤く染まり、漁船が港に帰る夕刻であることを表している。江の島が富士山の真下にあるが、実際にはもつと右手に位置しており、三浦半島の先端からこのような風景は見られない。

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広重 名所江戸百景 目黒新富士

2017年04月02日 | Weblog

「目黒新富士」

目黒の新富士は、旗本近藤重蔵が文政2年(1819)に邸内につくった富士塚の名称で、すでに七年前にあたる文化9年(1812)につくられていた目黒の富士塚と区別して、こう称された。近藤重蔵は、千島列島や蝦夷地など北方の探検者として著名で、この富士塚も彼の発意でつくられたものと伝わる。富士塚とは富士講の人々が信仰の対象として築いたもので、最盛期の天保年間(1830~1844)には江戸市中に「八〇八」といわれるくらい多くもの富士講があったと伝わる。富士山に模してつくられ、曲がりくねった山道は富士山の九十九折の登山道に倣っている。山の中腹にあたる曲がり角には烏帽子岩をかたどった石と社があった。現在の中目黒二丁目付近にあたり、手前に描かれているのは三田用水の支流である。

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