金閣寺は衣笠山の麓にある臨済宗相国寺派別格本山で、鹿苑寺ともいう。三層の建物で、一階を法本院、二階を潮音洞、三階を究竟頂といい、応永四(一三九七)年将軍足和義満が建立した。この高閣は華美を尽くし、金箔をもって一面を粧い、閣の前は池広く、九山八海(須弥山を中心に、鉄囲山を外囲としてその間に九つの金山と八つの海がある)と呼び、さまざまな奇岩をそこに据えた。遠方に見えるのは海抜一二三メートルの衣笠山で、仁治年中(一二四〇~四三)に内大臣藤原家良公が別荘を建てたところとして有名である。右下方の金閣と対峙するように衣笠山を描き、中央に大きな鏡潮池をすえる。金閣の豪華さと衣笠山の静かなたたずまいが、画面に調和を示している。
伊賀国は、現在の三重県西端部に位置し、東と北は伊勢・近江に続き、南と西は大和と交わる。上野は芭蕉の出身地として、また上野の郊外にある鍵屋(煙草屋の名)の辻は荒木又右衛門仇討の場所として有名である。遠方に描かれているのがおそらく上野城で、筒井定次が文禄年間(一五九二~九六)に築城したものである。しかし、筒井定次は慶長十三(一六〇八)年、家臣中坊秀祐に訴えられて幕府より封土を没収され、安濃津(現在の三重県津市)に入封した藤堂高虎が城主となって以来、代々藤堂家がこの地を治めた。本丸の南、愛宕神社のそばに蓑虫庵がある。「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」の芭蕉の一句から、門人の服部土芳は自分の些中庵という号を蓑虫庵と変えた。芭蕉は帰郷ごとにここに滞在し、多くの人々が、ここで芭蕉に教えを乞うた。東南は大きく開け、国見山その他、伊賀連山を望む閑雅な地であった。
広重 名所江戸百景 「馬喰町初音の馬場」
馬場ではなく干された反物をメインに持ってくる構図が広重らしい。ここから少し西へ行くと、紺屋町があるが、その影響なのか。又、山吹色も美しい。色的には、百景の中でも珍しいのではないか。
馬喰町(ばくろうちょう)の名前は、徳川家康が関ヶ原出陣に必要な数百頭の軍馬を管理するために、「馬喰」と呼ばれる馬方を住まわせたことに由来している。その後も隣町の大伝馬町・小伝馬町に幕府の伝馬役を勤めた大勢の馬喰が住んでいた。