武州金沢風景 (横浜市金沢区)
武蔵国金沢は海岸部に存在した名勝の地として知られ、慶長十九(1614)年『名所和歌物語』に「金沢八景」が記され、それは元禄七(1694)年頃この地を訪れた明の僧侶心越禅師の漢詩によって定着したといわれる。当地が江ノ島詣の途中にあるところから江戸の人々に評判を高めた。その八景の眺望随一といわれたのが能見堂であった。「登る事七、八丁、峠に仏閣有、擲筆山地蔵院と云、能見堂と額懸たり、側に三星亭あり、軒近く古松覆へり、巨勢の金岡も勝景に呑れ、築を捨たるとて築捨松といひ伝ふなる」『四親草』によれば右方の建物は三里亭であろう。中央の瀬戸橋からの内海は埋めたてられて今はない。
東都名所 「てつぽふづ」
「てつぽふづ」は「鉄砲洲」で、現東京都中央区湊町一帯にあった出洲。対岸に佃島がある。地名のいわれは寛永頃、砲術家の井上正継と稲富直方が大筒の弾着を試みたことから出たとも、地形が鉄砲に似たところから出たともいう。国芳はここの前の海中に突き出た岩場で釣りを楽しむ人物を描いた。水平線の右方を心もち下げて円昧をもたせ、水平線上の空には薄紅のばかしをかけている。