flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

鎌倉街道 八橋

2007-03-20 00:30:51 | 街道・宿場町
 古東海道は、この碧海郡八橋の地に差し掛かっていた。
八橋の語源は、承和九年(842)に架けられた橋に由来する。
往古、川中の海苔を取る母を頼り、川を入ろうとした子どもが溺れ亡くなった。子の母は悲しみと供養のため、出家した。母は橋の存在を望み、夢で川に材木が打ち上げられるとのお告げがあり、それを使って橋を架けたが、網の目のような川であったために互い違いに八つの橋を架けることになった。これが八橋の由来といわれている。
 また八橋は平安の歌人在原業平が、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と、句頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠んだ伊勢物語の名勝地。訳すと「着馴れた唐衣のように馴れ親しんだ妻が都にいるので、遥々こんなところまで来た旅を悲しく思うのだ」となる。
また、逢妻川の伝説に「むかし在原中将に懸想せし女あり、かきつばた姫という。業平東赴きたもう跡を慕いて八橋にて追い付けるが、業平朝廷を憚り、河をへだてて合い給う。故に後世遇妻川という。その女別れ悲しみて変死ける。その屍を八橋の辺鷹師山に葬る。今にその塚あり」というのがある。
 この地は往時から杜若の群生地と伝えられ、後に無量寿寺に集められた庭園や、街道筋には在原業平の遺骨の一部を埋め、塚を築いたとされる業平塚があり、松が植えられ、宝篋印塔が建てられた。そして業平の菩提を弔うため塚の傍らに堂宇が建てられた。後の在原寺である。
また、街道筋には「根上りの松」があり、松並木の名残といわれ、往時の風情を今に伝えている。
  
(関連記事:池鯉鮒宿 葦香城
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西方陣屋

2007-03-19 13:00:13 | 城郭・城下町
(西方古屋敷 西方古塁 愛知県御津町西方)
 天正十八年(1590)吉田城主池田輝政が、牛久保、新城、田原とこの西方に陣屋を設け、西方には森寺忠勝が配置された。
慶長五年(1600)播磨姫路に移封するまでの間構えられていたという。
慶長十七年(1612)松平忠利が吉田藩主となると、弟忠真に一千石で分知させた。
その子忠高は、千二百石で西方村と近隣の大草村、赤根村、河原田(上佐脇)(共に現御津町)、八幡村(現豊川市)を領したが、寛文四年(1664)禄米取りをして、知行地を返上し江戸に移った。
その後松平氏の家老であった長沢太郎左衛門が当地に住み、帰農した。現在もその末裔が住している。
 当時は平坂街道と御馬街道の間に南北百二十二間(約220m)東西百八十三間(約330m)の土塁が囲み、その周りを水堀が囲んでいたという。現在はその一部の堀、土塁を残すのみとなり、大半が住宅地となった。
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名豊道路 御津町

2007-03-18 00:00:45 | STRUCTURE-構造物残影-

(御津町上佐脇)
 国道1号線のバイパスとして計画されたのが第二東海道の一部である国道23号線(当初は1号線)。更にそのバイパスとして1964年に計画されたのが豊明~豊橋間全長73kmの名豊道路である。
その一部豊橋バイパス西端が、この御津町の事業地であり、豊川市為当町東三河ICで主要地方道東三河環状線と繋がる予定となっている。
豊橋バイパスで最後に着工されたこの区間、周囲の区画整理、道路整備も進んでおらず、東三河IC以西の蒲郡バイパスに至っては、着工すらされていない。
 果たしてこの道路がどれだけ必要とされているのか、工事の進み具合で判断できよう。

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徳定城屋敷

2007-03-17 00:00:06 | 城郭・城下町
 旧新城市域に存在する城跡で最後の踏査となった。
この地域の城跡をまわり終えた頃、徳定に「城、城屋敷」という地名があると人から聞いた。然し、それから身辺に様々な出来事があり、そのままとなった。
 村の中央、野田川支流西川に沿う、字宮東の丘陵に築かれた徳定城。現在は畑地や宅地となり、郭や堀、土塁といった遺構が不明瞭となっているが、痕跡として各所にみることができる。
弘治二年(1556)菅沼又左衛門が築き、後塩瀬氏が住したとされるが、塩瀬各氏居住時期と相違があり、菅沼氏以前から塩瀬氏が居住したか、西久保の塩瀬氏屋敷と混同しているものと思われる。
村西部の字西久保には、その塩瀬氏屋敷跡があり、永正二年(1505)から天正八年(1580)まで、丘陵上及び丘陵下に塩瀬久次、久勝、久俊が居住した。
何れにせよ菅沼氏及び臣の塩瀬氏が居城した城屋敷である。
       
(トップと下3枚は、西久保塩瀬氏屋敷跡)
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名古屋の三月

2007-03-16 06:00:01 | 漂い紀行
(先週の光景)
 昨年から1、2週間の季節の先取りが続いたが、ここにきて一時的な足踏み、後退となった。然し植物は正直な歩みを見せている。
(庄内緑地、第2栄公園、文化のみち)
       
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徳定

2007-03-15 00:00:32 | 街道・宿場町

(鳳来寺道 新城市徳定)
  山村と片山村の間にある集落。
集落の中程、墓地のある神ノ前の丘陵には、弥生時代の人々の営みの跡がある。
また、その形から、亀ノ甲と呼ばれる丘陵と、神ノ前の丘陵には7世紀の古墳が存在した。
古代には鳳来寺へ通じる道が通じ、中世には菅沼氏によって支配され、城屋敷が構えられた。そして江戸時代には、新城藩の領地となった。

(1990年11月8日字矢ノ入付近)
 
  平成2年に圃場整備が行われ、地形が変わってしまったが、雁峯の山懐に抱かれた集落の面持ちは今もまだ残されている。
     

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弾正砦

2007-03-14 00:00:25 | 城郭・城下町
(豊橋市石巻中山町)
 行政小字地名「弾正城跡」地内にある採石場及びその南東側の山林を差す。
然し南西側にある「堂山砦」と、北側にある「高城砦」と同一とみなされることもある。
共に西郷弾正左衛門正勝が城主であり、当時は一つの城の中の監視所の一つとしてみなされていたと考えることが妥当であろうか。
 採石場南東側、標高160mの尾根に登ることとした。
東側斜面は果樹畑で、辺りにはネットが張り巡らされていた。持主曰く、猪避けのための策とのことである。
果樹畑の北側の斜面から登る。斜面は沢や獣道があり、真っ直ぐ山林を登ると尾根上に到着。
五葉城、高城から下る尾根は、乗本の陣砦を思い起こさせるような雰囲気をしていた。
突端は尾根途中より盛り上がっていて、台のようにも見える。
突端から下る斜面には溝のようなものがみられたが、これは山道を沢化させないのと、下方の人家に水が流れないようにするための排水溝というべきか、何もない横の方へと水を逃がすように掘られたものである。このようなものは、平井大谷城等の登山道でもみられる。
尾根の南側は階段状となっている。植林が施されているが、石垣でスロープが設けられていることから、耕地や果樹畑をその後改変したものと思われる。所々やや広い削平地があったが、これが城砦当時からの地形なのか、その後の開墾によって造られたものなのかわからない。地主曰く、大きく地形を変えるような開墾はしていないと思うということであり、何かしら往時の遺構の名残であるのかもしれない。
       
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堂山

2007-03-13 00:00:54 | 城郭・城下町
(豊橋市石巻中山町)
 八名郡橋尾(橋尻)で豊川を越えた古東海道は、賀茂、西川を通り、この地で峠を越え遠江へ達したといわれる中山の地。
その隠れ里のような村の北斜面の山は、堂山と呼ばれ、天台宗の白星山太陽寺械明院があったという。故に太陽寺郷と呼ばれていた。
「太陽寺縁起」によると、平安末期の長承三年(1134)右大臣徳大寺成忠(公能のことか)が創建し、十六の伽藍を建立、その子清蓮が入山したという。
南北朝時代の延元三年(1338)に大火で焼失。再建するも大永二年(1522)に再び火災(兵火か)に遭い、廃寺となった。
往時の面影は全くないが、岩盤が少なく斜面の比較的緩やかなところを段状に削平し、出土が少ないことから一部の建物に布目瓦を用い建立されたとみられる。瓦片の他、12世紀頃とみられる壺や皿等の中世陶器片、礎石の一部を見出すことがある。また、南西側下方にある医(くすし)神社の建つ場所も、伽藍のあったところといわれている。
地名に堂山、太陽寺、大門(祇園杉(二枚目の写真)付近に仁王門があったという)等が今に伝えられている。
 永禄四年(1561)に(またはそれ以前)西郷正勝が太陽寺跡地を利用し「堂山砦」は築かれた。
寺の地形を利用した簡易応急的な砦であったと思われる。間もなくして牧野成勝、成定らがこの地を攻め、“堂山の戦い”が行われた。
この戦いによって辛うじて勝利するも、翌年、今川氏臣朝比奈泰長に攻められ落城した。
この堂山砦跡を、北東側の採石場及び採石場南東側にあったとされる「弾正砦」と同一とみる説。採石場上方、五葉城との間にあった「高城砦」と同一とみる説がある。
平成2年に愛知県遺跡分布地図を作成するにあたり、県教育委員会は採石場南東側、字弾正城跡の山を「弾正(高城)砦、別称堂山砦」として定義づけている。
 前回(平成3年3月2日)訪れたときと寺跡、砦跡の変化はみられないが、途中の斜面に砂防施設が設けられ、医神社の屋根葺き替え、石鳥居建立等の違いがみられた。
      
(関連記事:萩平山城 西川城
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萩平山城

2007-03-12 00:00:49 | 城郭・城下町
(鷹打(たこうじ)砦)(豊橋市石巻萩平町)
 萩平村と中山村の境に位置する標高約160mの城山。
古東海道が麓から中山の峠を越え、往来していた時期があるという説のある中山村を見下ろし、中山への侵入者を監視していたであろうその位置と眺望。その城山へ29年振りに登城した。
斜面に築かれ形の崩れた2基からなる城山古墳脇を通り上へ向かう。
植林された山であるため、以前と比べると明るくなったところ、暗くなったところ様々だが、頂きはさほど変化はなく、二つの郭の中間の堀切付近は相変わらず草深しであった。主郭とみられるところには秋葉神社が鎮座する。
 城主は西郷弾正といわれ、西郷氏が中山支配の足がかりとして築いた城なのか、ほんの一時期しか存在しなかった西郷氏の幾つかの砦とは違い、出城の役割があったのかもしれない。
        
(関連記事:堂山砦 西川城
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西川カタクリ山

2007-03-11 19:30:59 | ふるさとの木々
(愛知県豊橋市石巻西川町城山)
 西川城跡に広がる春の植物。戦国時代には西郷氏が城を構えたこの山も、今は個人所有の農園。私が初めて石巻西川の地を訪れたとき、最初にお伺いしたお宅が、この山の持主冨田さんであった。城跡を案内していただく前、「習慣になっている、おていちゃんを観てからご案内します、しばらくご休憩ください」の言葉を思い出す。「おていちゃん」とは、昭和53年前半に放送されていたNHK朝の連続テレビ小説のこと。その冨田さんが育てたカタクリやイチリンソウ等々…
その後ある意味観光地化されたこの地。私もしばらく遠慮していた。休日に訪れると、カタクリ山ならぬクルマの山。自動車絶対禁止とはいわぬまでも、公園ではないのだから自粛してほしいものである。私は、人の集まるところには自動車で向かわないことに決めている。
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鳳来寺道 吉水

2007-03-11 00:00:35 | 街道・宿場町
(新城市稲木)
 古代、伊那街道の前身は、山の麓を通っていた。
現在の主要地方道豊川新城線で、ほぼその道程を辿ることができる。
この稲木一帯は当時賀茂郷稲置里と呼ばれ、吉水は弘法大師三河三水(今水、鑓水、吉水)の一つ、吉水の清水がある場所である。
現在でも傍らに不動が祀られ、近隣の丘には当時の人々が眠っている。
 隠れ里的光景を持っているが、主要地方道の新道路盤築造が始まり、変貌する日も近い。
 
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臼子城

2007-03-10 00:00:16 | 城郭・城下町
(新城市豊栄)
 往古大雨によって雁峯山(上穂山)に地滑りが起き、それによってできた山が臼子城山だという。
この辺りでは土砂崩れのことを、樹木をなぎ倒すことから「ナギ」と呼び、「臼子ナギ」という地名ができたといわれている。
臼子城はその山に、永正二年(1505)に築かれ、奥平氏臣佐宗(さそう)重之が居城した。その後佐宗勝宗のとき、奥平信秀は勝宗の養子になったという。
「三河二葉松」に「佐惣大膳、或ハ佐伯大膳ト書シモノモ有、白雪(俳人太田白雪)云、此古城ヲ見物ス、大手ヲ杵坂ト云、其傍ニ蓑石(城主が蓑を干した石)ト云モ有、後ニ此大手ノ処ニ、奥平休可(信秀)ト云兵法ノ師住ス」とある。また、佐宗勝重が居住した屋敷が臼子城下の円通寺に隣接する場所に存在したという。
 臼子城内には櫓台と呼ばれる土塁と、郭に井戸が残る。
前回訪れた際(昭和53年11月22日)には辺りは畑で、山の斜面も杉桧の苗木が植えられたばかりという状態であったが、現在は全体に植林がされ成長し、暗い城跡となり、井戸も木々で埋もれていた。
時の移ろいを感じるが、ただ、見え難い「城跡標柱」だけは変わらない姿であった。
  
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臼子

2007-03-09 01:15:50 | 街道・宿場町
(新城市豊栄)
 雁峯山(上穂山)峠越え、挙母道沿いの山懐にある村、臼子。
縄文時代中期から、字臼子ナギ、東平に人々の営みが現れ始める。
室町時代文明元年(1469)には浄岩山円通寺が創建され(現在被災により更地)、隣接した山に奥平氏臣佐宗氏が城を築いた。(臼子城
江戸時代は最初幕府領であったが、天和元年(1681)からは志摩鳥羽藩領、享保十二年(1727)宝飯郡長沢巨勢氏領となった。
また、古くから「臼子歌舞伎」が行われ、新城町、作手との交流が盛んであったこの地。明治11年に山村と諏訪村、今出平村と合併し、豊栄村となった。
 往古は村の南を鳳来寺道が通っていたという。
    
(関連記事:豊栄神田
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真向遺跡

2007-03-08 00:00:54 | いにしえの人びと

(新城市豊栄)
 本宮山東麓、臼子川に沿った縄文晩期から中、近世にわたる複合遺跡である真向(まっこう、まむかい)遺跡。
昭和25年、両頭石棒等が見つかったため試掘調査を行い、縄文時代の遺跡であることが確認されたことから、昭和33年市文化財に指定された。
その後昭和49年国道301号線改修工事の際と、平成となってからの圃場整備及び主要地方道豊川新城線築造の際に発掘調査が行われた。
今までに石鏃、石斧、石棒、石刀、石包丁、石針、石匙等と甕棺片や土偶片等土器片が出土している。
土器は縄文晩期後半に位置付けられる五貫森式や後期末の水神平式が主体であり、亀ヶ岡式土器片も若干含まれている。また弥生式土器、土師器、須恵器、灰釉、中世陶器、土師系土器等も出土した。
また、遺跡範囲内には室町時代の中島市兵衛、菅沼竹千代が居住した屋敷跡がある。

(関連記事・豊栄神田

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八名郡 高井城

2007-03-07 00:00:48 | 城郭・城下町

(愛知県豊橋市石巻本町)
 豊川左岸段丘端、本坂通(姫街道)沿いに位置する城跡である。
高井城は石巻山城の館城的な性格を持つ。
私が豊橋市の古城跡のなかで最初に訪れたところである。
 南北朝時代の延元年中、南朝方美濃土岐氏がこの地に移り、土地の名を取って高井氏と名乗ったという説がある。高井主膳正が居城した。
然し、南朝興国五年、北朝康永三年(1344)北朝方に攻められ落城、主膳正は自害したという。
高井氏の後、西郷清員、白井作左衛門が一時期移り住んだという説もある。
 城跡一帯は後に開墾され耕地となっているが、丘陵北端に土塁の一部が「塚」と呼ばれ残る。また、東側と西側丘陵端に堀の痕跡をみることができる。その東側堀跡(姫街道脇)には高井の地名由来ともいう、清水がある。
 城跡は縄文前期からの複合遺跡である「城ノ内遺跡」でもあり、辺りの耕地からは石器や土器、陶器片が散見している。
以前「塚」の西側の畑の人に土器片等を提供していただいたことがあったが、今は荒地となり、角地に建物が建築中であった。また「塚」東側の蜜柑畑は、幹が切り取られ、所有者曰く「後継ぎが無く、採算も取れないのでやめることにした」ということであった。
30年間、あまり変わらなかった光景も、ここに来て大きく変わろうとしている。
     

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