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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

本宮長山城

2007-03-04 00:00:23 | 城郭・城下町

(本宮山城 豊川市上長山町)
 豊川と長良女川に面した段丘上に位置する。
鎌倉時代、熱田大宮司家庶流藤原能藤は、長山村に移り住んでから土地の名を取り、苗字を長山に改めたという説がある。能藤の後、季保、藤茂と続いたという。
その後、室町幕府管領細川高国の子細川高頼が、この地に来て長山氏と姓を改めたともいう。そして高頼の子高元が今川氏に属し、永禄三年(1560)桶狭間の戦いで戦死、この頃廃城になったと考えられる。
眼下の宝飯、八名郡境に位置した松原城も、この本宮長山城の関連施設、館城であろうと考えられる。
然し、文安四年(1447)の豊川氾濫によって流路が著しく変わり、松原村北東部が失われ、それと共に城の詳細も不明となったと思われるが、現在の流路となった以後も、豊川と旧宝川の要害の地に城が存在したことも考えられる。
(私が子供の頃、松原素盞鳴神社の場所を城跡だと記した絵図を見たことがある。)
 現在本宮長山城跡は、段丘端に稲荷社が建ち、背後に段丘に沿うようにして堀の一部が残っている。往時は現在の東部小学校一帯に城域があり、北と東を長良女川の自然堀を利用して築かれた城であったと推察できる。
昭和30年代前半の国道151号線拡幅工事の際、断面から垂直に伸びる堀跡が検出され、堀内から土鍋、内耳鍋片といった土師系土器や、古瀬戸おろし皿片、天目茶碗片等が出土した。
また、この地は縄文晩期末(弥生初期)のこの地方の土器標式となっている水神平遺跡の範囲と重なり、複合遺跡としての重要性も併せ持っている。
(下の写真は、1994年9月21日山地崩壊危険地区治山事業時)
  
(関連記事:旧一宮町域における詳細不明城跡について

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