近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

「風博士」発表雑感

2007-04-17 23:00:18 | Weblog
特異な文体、不可思議なストーリー、一読しただけではなにがなんだかさっぱりわかりませんでした。
安吾のファルス論などを参照すると、この小説で実践されているものがやっと見えてきます。
無精者の私はテキストしか読んでいなかったので、頭を抱えて例会に参加し、目から鱗をぽろぽろと落としていました。
テキストそのものが作品研究の対象であり、一番重要な物であるのは明らかなことではありますが、テキストだけを重視して周辺情報を疎かにすることは、「著作人格の侵害」に繋がる読みをしかねないということを、今回の例会で学びました。
かと言って、周辺の資料ばかりに固執して、肝心の本文分析が疎かになっては元も子もありませんし。そこのバランスを上手くとることが肝要なことであると同時に非常に難しいことなのでしょう。

大学院の先輩の発表を拝聴することは、研究の内容自体からも学ぶことは多いのですが、発表者としての態度なども見習わなくてはならないなと思うことが多く、とても勉強になることだと感じます。
今回の例会を糧に、私も自分の研究に励んでいきたいです。

以上「メロン抱えてどこまでも」西山でした。

坂口安吾「風博士」

2007-04-17 03:45:07 | Weblog
こんばんは。浅井です。
本日は、坂口安吾「風博士」の研究発表を行いました。
近研が普段、どのような様子で研究活動を行っているのか知ってもらう為の
見学会を兼ねて開催された発表会でしたが、
初めて参加された皆さんはいかがだったでしょうか。
資料の作り方や、作品の〈よみ〉へ切り込む視点など、
研究の際の方法が少しでもわかっていただけたことと思います。
以下、簡単に本日の発表の流れです。


「風博士」は〈僕〉や〈風博士〉の語る本文内容の疑わしさから、読む側が「謎解き」のような読み込みをしていく余地があり、従来の先行論でも、多種多様なな解釈がなされてきました。
しかし、本文はどこまで突き詰めても合理的な解答がでないように語られています。今日の発表では、その答えがでない「謎解き」ではなく「〈僕〉や〈風博士〉の語りや行動の合理性のなさはあえて合理的でなく語られている」という視点を出発点として、作者の唱える「ファルス」―夢も空想も全てのものを肯定していく、全てのものをどこまでも肯定していった先にでたらめがでたらめとして存在するおかしみが生まれる―という態度をヒントにこの作品を読み解いていただきました。
〈風博士〉は最後〈風〉になったと〈僕〉は語ります。〈風博士〉の実体はもはやどこにもない。けれども、〈僕〉にとっては〈風博士〉が「いた」ことも「風」になったことも〈真理〉であり、〈諸君〉らもその〈真理〉を肯定することを要求されます。しかし、〈僕〉や〈風博士の遺書〉によって語られることは、「常識」で考えれば不合理でありえないことばかりです。むしろ、〈風博士〉の天敵である〈蛸博士〉のほうが、「正しい」判断を下してさえいます。このように、〈僕〉や〈風博士〉は〈真理〉をあえて到底納得できそうにない語りによって語るのです。
そして〈蛸博士〉や〈世人〉や〈識者〉は彼らの合理性のなさに〈異論〉を唱え〈罵倒〉します。しかし、そのような者こそ「科学」や「常識」「論理」といった既成の価値体系を盲目に〈真理〉と妄信しているだけで、それはまるで妄想めいたことを頑なに〈真理〉とする〈僕〉や〈風博士〉となんら変わらないのではないか…。まとめると、合理性のない語りをあえて〈僕〉や〈風博士〉に語らせ、〈諸君〉(読者)に「なんて合理性がないんだ」と思わせることで、既成の価値観を妄信している〈諸君〉こそが、いつ笑われる対象になってもおかしくないということ、笑われる対象はいつでも反転することが作品によって示唆されている。ということです。そして、結末の〈風博士〉と〈蛸博士〉の同化によって両者が結局は同根の存在であることが示唆されている。というのが最後に指摘されました。そして、作者は「ファルス」の考えを通して、でたらめのおかしみを描き出したその裏に、でたらめを笑う者も実は同じく笑われる存在であるという人間の矛盾した本質を描き出したのではないだろうか。というのを結論としました。
今後の課題としては、作者が作品によって常識や合理主義、権威といったものの解体を志向していた可能性が指摘されたことと、作者における〈風〉のモーチフは果たしてどのような意味もつのか、などといったことが挙げられました。


明日からは、他の学部生に今回の発表・質疑応答に参加した所感をお願いしたいと思います。
それでは。