ときどき
気温が下がって,雪が降り始めた。
午前中レッスン。
午後から買い物。
夕方、お通夜。
アコーディオン協会の先輩方が,今年3人亡くなった。
元気な頃、皆、ニセコで合宿して,朝まで飲んで、演奏して,ホームへ慰問に行った
仲間だった。私は、一番?若手の方・・・・
「Annen-Polka」の優しいバージョンと「装飾音のための練習」を書いた。
装飾音もむやみにつけると嫌らしくなるけど、なかなか良いタイミングで入らない、
苦労している生徒さんも多い。
深夜のラジオで,日本の戦前戦後の流行歌を聞いている。
年代順のヒットソングだったり、作詞家・作曲家特集だったりする。
幼い頃から、流行歌は家の中で流れていたので,大体聞き覚えの曲が多いけど、
歌詞の内容が新鮮で「へ~~」そんなことを歌っていたのか・・・?と
暗闇の中で,ヘッドフォンを耳に押し当てている。
「お月さん・こんばんわ・・・・」暗くなるまで草っ原で遊び疲れ,帰り道、昇り来る大きな月に
頭を下げて,何度も何度も「お月さん・こんばんわ・・・」だけ歌っていたのを思い出す。
「どうせ拾った『鯉』?・・だぁ~も~の~~~~~」・・だった。
母親は三橋美智也が好きだったので、「おぼえているか~ぃ・こきょぉ~の~そらを~」
すり減ったドーナッツ盤を思い出す。
往年のスターが,白いアコーディオンを軽やかに抱えてステージに上がれば、
皆、「痺れて」しまったのだろう。
「俺も,金貯めて,アコーディオン買って・・・・」という世代の人々が・・・そろそろ・・・・・
ある意味「罪な楽器」なのかも知れない。
今の時代・・ボールが見えなくなるまで,毎日毎日、草っ原で、野球をしている少年たちがいるのだろうか?
「いつも、母親に叱られて、とぼとぼ・・・帰る」
特に・・・晩秋の頃・・直ぐ暗くなって寂しかった。
ぃや~~~ご無沙汰です。
お変わりなく,元気にお飲みになっていますか?
・・・・そう・・・ハナタレのころは、自分だけではなく
隣のケンちゃんもミヨちゃんもみんなハナタレて、袖口が
ガベガベだったから、それが普通だった。
空き缶「1個」あれば暗くて人影が見えなくなるまで
遊べた、石ころ一つあれば・・・・・
野球のボールが「1個」あれば,グローブもキャッチャーと
ファーストにあれば、三角ベースが可能だった。
釘刺しもよくやった。
地面に線を引くのが遊びの始まりだった。
必ず,釘刺しの「達人」やケンパの「達人」がいた。
「達人」は授業中先生に当てられても、「ハァ~?」
みたいな子だったけど、授業が終われば天下人だった。
・・・そう・・「釘刺し」では皆に「一目」置かれていた。
大人は忙しくて,子どもの遊びに介入することなんて
考えられなかった。こどもはこどもなりの路地裏の
「世界」をちゃんと持っていた。
「路地裏の世界」は大人になるための大切な場所だった。
いつの間にか,釘を刺せる「地面」も消え、
「路地裏の世界」はことごとく消滅した。
大人になれなかった人々が、街や国を動かそうとしても
それは、どだい、無理な話という結果が出ている。
ハナタレのころ、中学生の悪たちや高校生があんなに
「大人」に見えたのは・・・・・なぜだろう?
お立ち寄りをありがとうございます。
子どもの頃、大雨とか台風の暴風「雨」で、
大川や田んぼの水路が氾濫したりすると、
道ばたに鯉や鮒がぴちゃぴちゃ跳ねて
バケツを持って拾った・・・
子どもながらに、「どうせ・・」というのは
『鯉』に対して失礼な言い方だと考えたりした。
そう・・・昔の歌は歌詞の内容が「はっきり?」していた
今の歌は、なに歌ってんだかわからない歌が多い。
捨てちゃえ 捨てちゃえ どうせ拾った
こいだもの が 鯉じゃ無かったこと。
我が家ではラジオから流れていた。
兄がステレオを買い、聴いていたのは
ハリー・ベラフォンテとかナット・キング・コール
とかレイ・チャールズ。だから洋楽も早くから
僕の耳に入っていた。
いまでも好きだなー。