プラハに住む友人から送られてきた、コロナ禍の「プラハの風景写真」です。
新市街とされる「ヴァーツラフ広場」の北西の端、なだらかな坂を下ったところに位置する、「ムーステク(Můstek)十字路」の4つの方向を撮った写真です。
ここは、普段なら多くの人出でにぎわっている、プラハの中心部です。地下鉄ムーステク駅があり、A線とB線が交差するので、乗換駅になっています。
「ムーステク」(=小橋) というのは、昔、ここに旧市街と新市街を隔てる堀があって、橋が架かっていたことに由来しています。
さて、十字路の南東方向は、ヴァーツラフ広場で、手前は工事中のようです。遠くに見えるのが、国立博物館です。
南西方向は、「ナ・ プシーコペ通り」(na příkopě) で、「堀の上通り」です。
北西方向の、旧市街広場へ繋がる「ナ・ムーステク通り」(na můstku) で、「橋の上通り」です。
北東方向で、昔の堀が埋め立てられて、通りになっています。
11月のプラハは、曇ったり、霧が出たりの、どんよりとした薄暗い天気が続いているそうです。
さて、先週に書いた、1620年11月8日に起きた、「ビーラーホラ (Bílá hora =白山) の戦い」の続きを、もう少し。
プラハを舞台に、プロテスタント軍 (フス派、貴族=諸侯・市民軍) が、カトリック軍 (教皇派、ハプスブルク王・カトリック同盟軍) により、打ち負かされた戦い、言うならチェコ (ボヘミア) 対 他国の戦いでもあり、その出来事から今年が400周年にあたります。
その記念イベントは、コロナで中止になったようですが、展示物だけが、旧市街広場の一角に設置されています。
戦いの後、1621年6月21日に、27人の反乱主導者が、この旧市街広場で処刑されました。3人は絞首刑に、あとの者は斬首刑にされ、4本の剣が使われました。
展示物にあるのは、当時の処刑の様子と、その時使われた剣の1本の写真です。
叛旗に対する見せしめとして、12人の頭蓋骨が川沿いの旧市街の塔に、10年間吊るされたとのことです。
(ネットで探ると、処刑の様子を伝える絵が、いくつかありました。カトリック側が勝利を大々的に広く伝えるとともに、反面、自分たちに逆らうと、(異端派は) こんな目に合わせるぞ、といった、脅しの材料として効果的に使われたのでは)
ちなみに、死刑執行人のジャン・マイドラー (Jan Mydlář) は、広場の市庁舎のすぐ後ろの建物に住んでいました。その家はまだ存在し、今は、「Pivnice U Kata」(カタのブラッセリー=パブ料理店) になっているようです。
ずっと後になって、市庁舎の近くの石畳には、犠牲者に対する敬意として、処刑の日付と27の十字架が描かれました。
新市街とされる「ヴァーツラフ広場」の北西の端、なだらかな坂を下ったところに位置する、「ムーステク(Můstek)十字路」の4つの方向を撮った写真です。
ここは、普段なら多くの人出でにぎわっている、プラハの中心部です。地下鉄ムーステク駅があり、A線とB線が交差するので、乗換駅になっています。
「ムーステク」(=小橋) というのは、昔、ここに旧市街と新市街を隔てる堀があって、橋が架かっていたことに由来しています。
さて、十字路の南東方向は、ヴァーツラフ広場で、手前は工事中のようです。遠くに見えるのが、国立博物館です。
南西方向は、「ナ・ プシーコペ通り」(na příkopě) で、「堀の上通り」です。
北西方向の、旧市街広場へ繋がる「ナ・ムーステク通り」(na můstku) で、「橋の上通り」です。
北東方向で、昔の堀が埋め立てられて、通りになっています。
11月のプラハは、曇ったり、霧が出たりの、どんよりとした薄暗い天気が続いているそうです。
さて、先週に書いた、1620年11月8日に起きた、「ビーラーホラ (Bílá hora =白山) の戦い」の続きを、もう少し。
プラハを舞台に、プロテスタント軍 (フス派、貴族=諸侯・市民軍) が、カトリック軍 (教皇派、ハプスブルク王・カトリック同盟軍) により、打ち負かされた戦い、言うならチェコ (ボヘミア) 対 他国の戦いでもあり、その出来事から今年が400周年にあたります。
その記念イベントは、コロナで中止になったようですが、展示物だけが、旧市街広場の一角に設置されています。
戦いの後、1621年6月21日に、27人の反乱主導者が、この旧市街広場で処刑されました。3人は絞首刑に、あとの者は斬首刑にされ、4本の剣が使われました。
展示物にあるのは、当時の処刑の様子と、その時使われた剣の1本の写真です。
叛旗に対する見せしめとして、12人の頭蓋骨が川沿いの旧市街の塔に、10年間吊るされたとのことです。
(ネットで探ると、処刑の様子を伝える絵が、いくつかありました。カトリック側が勝利を大々的に広く伝えるとともに、反面、自分たちに逆らうと、(異端派は) こんな目に合わせるぞ、といった、脅しの材料として効果的に使われたのでは)
ちなみに、死刑執行人のジャン・マイドラー (Jan Mydlář) は、広場の市庁舎のすぐ後ろの建物に住んでいました。その家はまだ存在し、今は、「Pivnice U Kata」(カタのブラッセリー=パブ料理店) になっているようです。
ずっと後になって、市庁舎の近くの石畳には、犠牲者に対する敬意として、処刑の日付と27の十字架が描かれました。