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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

トリシャ・ブラウン

2006年03月27日 | Weblog
トリシャ・ブラウンにまともにはじめて遭遇した。

昨日、公演を見て、また今日『トリシャ・ブラウン 思考というモーション』という本と『Teisha Brown Early Works 1966-1979』というDVDを見ながら、少し思ったことをメモしておこうと思う。

さっき『Accumulation』を見ながら、その「ある一定のテンポ」について考えていた。腕を前に伸ばして、手首を回す、その「ねじり」からはじまるこの作品は、次第に首を横にひねるとか膝を横に上げるとかヴァリエーションが増えていく、けれど、テンポは一定だ。ヴァリエーションをもつ簡素な動きよりも、気になるのはその一定のテンポだ。それはまず音楽の否定というか音楽への従属から身体を解放するプロセスを前提にするものだろう、まず。でも、そこにリズムがないとは決して言えない。独特のテンポ感がある。それは何だ?考えながらふと思いだしたのは、細野晴臣が、ベースを弾くのに飽きてしまったエピソードだった。

「基本的にはグルーヴといわれるようなノリは捨てる方向の動きに入っていったんですよ。単純化の行き着く先は、ディスコの四つのキックのビートで押し通しちゃうということで。それでべつにいやではないわけです。やっているほうは。逆にこだわらなくて済むようになって楽になったというところがあってね。ミュージシャンとしての誇りというか自覚の崩壊ですね(笑)。マニアックな部分がどんどん崩壊していくということに自虐的な快感があって。だからもうベーシストだなんていう気持ちはないわけですよ」(『細野晴臣インタビュー』平凡社)

「グルーヴ」の「ノリ」はある意味で揺れているものだ。つまり、人間が創り出すノイズであって、でも気持ちいいものである限りは望ましいノイズである。それを捨てるきっかけになったのが、言うまでもなくコンピューターを導入するという契機だった。コンピューターの一定のリズム、テンポは、しかし快感に結びついていない単に冷徹なものではない。むしろ「気持ちのいい音」がそこにあった、と細野は言っている。

「それまでわれわれは非常にアナログ的な演奏をやっていて、コンピューターの演奏とは大きな差があったんです。長い間やっている間に、やっとコンビューターと太刀打ちできるようなリズム感を身につけたんですけど、最初のころは、コンピューターの真似をして手で弾こうとしてもだめだったんです。甘くなっちゃう。われわれがそういう甘さをもってたおかげで、コンピューターに触れたときの感動がより大きかったんです。」

グルーヴは、ようは人間の「甘さ」でもある。それを消し去った「リズム感」のもつ快感。細野がテクノの黎明期に感じたこの感覚は、トリシャ・ブラウンに70年代半ば触れた日本人が感じた感覚と似てはいないのだろうか。

けれど、ほんとはここからが問題で。つまり、テクノはコンピューターにテンポやリズムを一任することで「甘さ」をリダクションすることに成功するわけだけれど、ダンスの場合はどうしようもなく身体をメディアにする他ないのだから「甘さ」からは逃れようがないはずなわけだ。そこで、逃れていないはずなのに、消し去った身振りというか「消してあるというお約束」をされてしまうと、そのダンスをぼくたちは「コンセプチュアル!」(頭でっかち!)という烙印を押して批判の対象にする。そこで興味深いのは、『Accumulation』の場合少なくともぼくはそうした非難をする気にならない、ということだ。つまり一定のテンポを呈示しようとしているがしかし甘さは残っている、のであるにもかかわらず実に面白いのである。なぜだ?

ぼくにとって、トリシャ・ブラウンの謎はここにある。うん、そしてこのことは、昨日の公演を見ている間にも感じたことだ。一定の秩序へと身体の動きを統制しようとしながら(それによって確かに、細野が感じたコンピューターの「リズム」がもつ快楽と類比的なものも感じはするのだけれど)、そうすることで当然のごとく統制しきれない部分が生じてしまう、にもかかわらず、そのことをごり押しせずに(故に「コンセプチュアル!」と思わせることなく)、むしろそこに起きてしまう「揺れ」に自分らしいスパイスを利かせている。これがトリシャ・ブラウンのダンスのツボではないのか。

腰を一旦否定しているはずなのに腰を感じるのだ。それは、統制の産物のようでもあり、また統制からこぼれた部分によるもののようでもある。

もうちょっと書きます、、、


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