Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

再開

2006年03月07日 | Weblog
再開します。

いまは、回転させていた頭が空回りして、「ぽっかり」状態です。
2月中頃から今日までに、ここに書くべき公演を沢山見ました。忙しいながらも良い企画が多い時期だったので、無理してみたものも結構ありましたが、無理がきかなくて見過ごしたものもいくつもあります(「踏みはずし」企画のオトギノマキコ、下北沢のカフェで踊ったKATHY、プリコグ企画、、、残念。でも、なんだよ、見なかったの好きな人たちのばかりじゃん、嗚呼!)。

あの、最近、ぼくのなかで静かな変化(うねりのようなもの)が起きています。
どう言ったらいいのか、、、何が魅力的で何がそうではないかの「照準」がはっきり定まってきた、というのか。
何が問題なのか、何が押しつぶされているのか、何を支持するべきなのか。
少しずつ、ここで書きながら考えていこうと思っています。

本当は、フォーサイス見た感想とか書きたいのですが、それよりもいま映画「RIZE」見てきたので、これのことから。
シンプルに言えば、こういうダンスこそぼくが見たいもの、ということがよく分かりました。
踊ることに必然性のあるダンスというか、切実なダンスというか、本気の、リアルなダンス。
多分、「ダンス」というものを単体で引き出してきても余り意味がなくて、ダンスをする人それを見る人、それを踊る場所が相互に作用して、相乗効果を上げている状態があってこそ、こういうダンスはあらわれる、と思うんですね。冒頭で、「クラウン」の格好で幼稚園とか路上とかで子供たちの誕生日を祝うことを自らの「活動」にしている一団があらわれるんだけれど、彼らを待ち望んでいる子供たちの様子とか、路上の感じとかが大層よくて、ダンスを中心によい循環がぐるぐるぐるぐるしているのがよく分かる。彼らの一人が、「なんで顔白く塗ってこんなコトしているの?」とインタビューされて「んー、ひとを喜ばせたいからかな」って言うときの感じが、とくに「ことの真相」を告げている気がした。ヒップホップのダンスを踊る理由が「ひとを喜ばせたい」なんてなんていいんだろう!一体、どれだけのコンテンポラリーダンスのダンサーが、「ひとを喜ばせる」ために踊っているだろうか。って思っちゃいますね。もう終わっちゃいそうなので、コンポラ関係の人たちにこそ、是非見てもらいたいです(とくにダンサー)、と強調しておきます。

それにしても、土曜日の横浜ダンス界隈は凄かった。凄かったですよね。もう「無茶!」と言いたくなるくらい贅沢な時間でした。底力を感じました。闇夜のコンクリにへばる室伏鴻とか、ちょっと「鎌鼬」な一瞬だった。あと、山賀ざくろはやっぱり今年の台風の目ですよ。凄いですよ。ここに速く追いつかないと、置いてかれちゃいますよ、ってな作品でした。「るる ざざくろ」は、ほうほう堂ファンとか、山賀ファン(いるのか?)とかそういうレヴェルではなく、多分、コンポラ界で今年前半の見るべき(マスト)公演になるに違いありません(また、そうであれ!)。

ひとこと、備忘録的に。
フォーサイスとくに日曜日のBプロ見ながらぼくはずっと西尾康之の彫刻のこと考えていた(ガンダム展の「セイラマス」も良かったけれど、山本現代で見た最新作も凄かった。ところで、最近、彫刻のことばかり考え中。ダンスは片づけの楽な彫刻?とかなんとか)。西尾の作品は、指の痕跡が気持ち悪いくらい生々しく残っているんだけれど、その指の痕跡みたいに見えた、ダンサーが。フォーサイスの指たちとしてのダンサー。「個性」はたかだか小指と親指の違い程度しかなく、そんな指はそれぞれに動いてはいるものの、「方法」がそこに内蔵されていることは明らかで、破裂するような動きの瞬間も、その方法から演繹してみてしまう。まあ、その破裂のような速くて強いまた繊細で魅力的な描かれる線は、確かに魅力的味わいがあるというか、楽しめる。「水しぶき」の軌道みたいな。でも、それは方法なんだよ、そして、その指には、西尾のもっている「気持ちが悪いくらい生々しい」ものはない。実にクリアーで、「バレエ」だ。それは知的だけれど、野蛮ではない。こういう「知的だけれど野蛮じゃないんだよなー」的な不満を人はもうもっていないんですかね。「知的」だけでオッケーっていう会場の空気は、「格差社会」日本って雰囲気でちとうんざりしてしまう。まあ、音響とかで適度に「野蛮」演出しているんですけれど、何せ、ダンスがね、そうじゃないのですよ。