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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

2006年03月22日 | Weblog
「闇とは何かを、今度は、闇がまったく失われているケースとの対照によって、考えてみよう。闇がまったく失われているケースとは、たとえば、ハードコアポルノである。そこでは、すべてが見せられている。つまり、性器や、その結合までが見えるのであって、闇の断片、不可視であるべき部分、あるいは焦げ穴がどこにもない。だが、逆説的なことに、ハードコアポルノにおいては、われわれは、まさに、すべてを見てしまうがゆえに、何か肝心なことが見落とされているように感じられる」


大澤真幸「闇」(『美はなぜ乱調にあるのか 社会学的考察』所収)の一部。ハードコアポルノはいわば闇であるべきものに光が当てられてしまった映像である。それが不快なのは、闇のなかにいて欲しいものがあらわになってしまっているからだろう。見落とされている「肝心なこと」とは闇であり、闇がないということが不快なのである。この闇を希求する心情は、恐らく、闇をXとして置いておくことで光を確保したいとする思いと表裏一体なのであろう。ということは、「闇は、接近し続ける限りで存在している。言い換えれば、それは、逃れ行く限りで存在しているのだ」と考えるのは、光のなかに安らおうとする主体のすること、ということになる。闇がないと困るのは、そうした一部の(近代的)主体に他ならない。

何を書いているかというと、ひとつはやはりポツドール「夢の城」なのである。あれは、いわばここで言われているハードコアポルノだった。それを「闇の不在」として見ることも可能である。「案外いやらしいと思えなかった」ってよく聞いた感想は、そうした闇の不在への意識から出てきたものに思われる。

で、その時の「不快」が重要な気がするのだ。見たくないものの所在を指しめしたことが、「夢の城」の果たした重要なことである。闇の存在が明るみに出たからといって楽しいものじゃない。そこには、見たい欲望はあっても見たかったものが見られるわけではない。けれども、その不快にこそ、現在の状況において希有なものがあったというべきじゃないだろうか。(そしてち、この点においては、チェルフィッチュが語りの中で「ヤリマン」という動物状態を表象する点で、不快は軽減されている。もちろん、そのときの身体の動きは動物性を残していて、そこにリアリティが温存されてはいるのだけれど)

もうひとつは、最近、土方巽と70年代初頭の映画や実写変身ものとの関係について考えている。あの時代は、「奇形」とか「不具」という言葉が生き生きとしていた。そういった「闇」にあるべきものが社会のなかである地位をえていた。善玉だけじゃなくて悪玉にこそひとは引きつけられていたのではないかと思ってしまうくらいだ。ぼくは71年生まれなので、そうした影響を幼児体験として受けている。当時のテレビは暗かったし怖かった。「ゲゲゲの鬼太郎」とか「ドロロン閻魔君」とかコマーシャルが映る度にぼくは眼を伏せていた。「仮面ライダー」の怪獣たちも、いまの「響鬼」とは比べものにならないくらい奇怪だ。あの時期、不思議なくらい悪(禍々しいもの、忌み嫌われるもの)は元気だった。そこから今に至るまでの30何年は、そうしたものにフタを被せることに集中した時期と言うことが出来る。

この変化についてじっくりと考えてみたい。情報開示の時代、セキュリティの時代、ガラス張りであることをよしとする時代、そして故に闇を確保することが困難な時代、この時代に土方巽のことを考える、「暗黒」の意義について考える。