いまTSUTAYAが半額で『リング』『呪怨』(一応この二本は研究のため)と『ケツメポリス4』などのCDを借りる。昼間、背筋をぞくぞくさせながら『呪怨』を観賞。何度見ても怖いところは体が勝手に怖がる、ぞくぞく。画面をデジカメで撮りながらさらにぞくぞく。ともかく、いろいろとアイディアを掴んだ。六時前に家を出て、横浜へ。ipodでケツメイシなるグループのCDを聞いてみる。RYOというメンバーだろうか、沖縄の人らしい少しなまりの入った声振りが妙にメロウで印象に残る。テレビとかで知っているイメージよりもずいぶんとニュアンスをもった(味のある)グループなんだなと思わされる。ヒップホップの設定の筈なのに、OSは日本の歌謡曲とかニューミュージックなところも悪くはない。でも、いくらなんでも「三十路に花を咲かそう」なんて歌詞は恥ずかしすぎる。「三十路」とか「さくら」とか、恥ずかしいはずの言葉を恥ずかしがらずに使ってしまう感性が、ともかくも今の日本のヒップホップにある、その代表の一組?それを批評性の欠如ととるのか、何にでも乗っかってしまう思い切りの良さととるのか、意見の分かれるところだろう。前者の立場をとるぼくは、自動的に彼らの感性を欠いた存在(オッサン!)になってしまうんだろうな。なんて思いながら、BankART1929へ。
「街のあちこちにダンスが溢れる」(チラシ)がキイワードの企画。ぼくは番外編を含め三回見たことになる。どれも実に面白かった。ダンスを見る場所は劇場やスタジオとは限らない、いやそうした場所じゃない方がいいことは多いのでは、という強いく思わされた企画でもあった。
今回のトップ、金魚(鈴木ユキオ)『Focus-ミルク-』は、神奈川県立歴史博物館の脇のスペースで。動物の置物のように四つんばいで腕と首だけ機械的に動かす男の子二人を後景に、女の子が無関係に立っているところからはじまる。無関係のところで二つを繋ぐのは、気配への気づき。でも、「気づく」だけでは関係が転がっては行かない。この転がる手前のもじもじしたような時間だけが過ぎていく。最初、逆さにしたテーブルの上に仰向けに寝ていた鈴木が「無理矢理!」な感じで垂直に伸びたテーブルの脚のてっぺんに自分の両手と両足をのせていく。無理矢理よつんばいに起きあがった体は、起きあがれた成功もそこそこに片足片腕を宙にバランスを失い墜落する。最近の鈴木がよくする物とのからみは、体の強さを示しつつその強さが無意味に消費されていく虚しさのようなものを伝える、今回もそれが凄く感じられた。閉塞感、と言ってしまうとつまらなくなるけれど、あてのないむなしい可能性をただただ蕩尽する他ないといった気持ちにさせられると、リアルな感動が起きる。全然アプローチは違うのだけれど、ポツドール『夢の城』の男女と行きつく絶望は同じなのではないか、と、さえ。
次は、馬車道通りの道路を交通規制し(!)舞台にした、モモンガ・コンプレックスの『フリーター・コンプレックス』。モモンガ初見。桜美林大出身の二人(白神ももこ、高須賀千江子)らによるグループであるとのこと。タイトル通り、金のためにバイトをする女の子の張り切りと切なさとけなげさを踊る。踊りに個性が出るといいなあ、構成は結構細かくアイディアを持っているのだから、と思う。ともかく、道を隔ててこっち側が観客(しかも大入り200人くらい?)で、反対側が舞台アンド背景ということは、本物の眼鏡屋とかラーメン屋とかカレー屋とかがそこにあるわけで、正に「サイトスペシフィック」な作品であったし、そのあたりをかなり考えて作ったことでほんとに楽しい時間になった。眼鏡屋の看板おばさん(もちろん眼鏡掛けてる)がこっち見ているのをこっちから見ているってことがもう本当におかしかった。界隈の真骨頂を見たって感じで。
東京藝術大学横浜校地で、中野成樹(POOL-5)+フランケンズ『ドラマリーディング』。こちらも初見。「ドラマリーディング」というのに、無言劇。どうも12分である海外の戯曲を全部やってしまった、ということらしい。だからといって「早回し」な動きではない。内容は分からないので、ただ体の動きの表情を受けとる。物語の構造を背後に秘めた身体のひとつひとつの表情は、何かしらの必然性の下にあるわけで、分からない割には表情の魅力を淡々と受けとることができて、そのことが面白かったりした。また、演劇の身振りだけを抽出するとダンスとは違うレヴェルで運動を賞味できるのか、と教わった。
県民共済馬車道ビルのホテルのロビーみたいな場所で、矢内原美邦(ニブロール)『チョコレート』。今回は三人(矢内原、佐川智香、藤瀬のりこ)で。「見て!」と声を上げる矢内原は、少女というか幼女。脳から噴出し続けるイメージの洪水に乗っているだけで一日が過ぎてしまうころの子供。身勝手で傍若無人な子供なのに、「見て!」と相手を必要とする(で、ちょっとズルイ)。ロビーのソファなんかも使って、なんか子供だったり大人っぽかったり、不安定な気分になりながら、あまりにもいろいろなイメージにぼくも溺れだして、なんだか久しぶりに、コンテンポラリー・ダンスを見始めたときに感じたワクワク(ゾクゾク)を思い出したりした。でも、どうなんだろうな、20才くらいの観客の目には、ぼくとは違うものがきっと映っているんだろうな。ぼくが冷静になれない部分を結構クールに受けとっていたりして、分からないが。
ここからは、一旦二手に分かれる。C.l.c.o.を見ないで、元ルノアールでやった、ひろいようこ『状態系「ティータイマー」』を見た。これが、凄くよかったのだ。ひろいようこは、以前、STで子供用の鉄棒を舞台に持ち込んでそれと絡むなんて作品を作ったりした。そのときは、後半鉄棒を何度も何度も前回りし始めてからぐーんと面白くなった覚えがある。面白くなったのは、執拗な繰り返しの果てで体が勝手に運動し始めた、からだろう。今回は、最初から体があやしい。椅子があり、またテーブルにティー・カップがのっている。そこに、紅茶の入ったガラスのポットをもってひろい登場。椅子に座ると、ゆっくりこちらを見回す。その眼が何も見ていないようで見ているようでやっぱり見ていないような「不穏」を湛えている。カップに注ぐ。その音が変に乱れていてみだらで、さらに飲みながら体が急に前屈みになったり、足をすり足して音を立てたかと思うとズズズと腰が椅子からずり落ちたり、じっとしていられない。要するに、なにをしでかすかわからないのだ。次が読めない動きは、恐怖と痛快さとがない交ぜになって、眼を逸らすことが出来ない。クツを脱いでテーブルに上がると、腕を高く上げて下のカップに注ぐ。べちゃべちゃと音が響き空間がみだれる。それを涼しい眼で続けるひろい。なんかちょっとにやけてもいるぞ。あやしい(危ない!)。その腕を激しく振り落としてポットを粉々にしちゃいそうな予感さえする。こんなちっちゃな、しかもどこにでもあるカップとかポットとかのあるだけのなんてことのない空間が、こんなにも激しいレンジを蓄えてしまう。そのホラーは、からだを出来る限り解放しようとすることによってのみ生まれるものに相違ない。で、ぼくはそういうものをダンスを思い込んでいる。ダンスはリズム、でも予測不能のつねに前人未踏のリズム、何か久しぶりにそのことが確認出来たのだった、嬉しかったなー。
同じ場所で少し空間をずらし、次は吉福敦子の『The Chamber Dance in Former Coffe Shop』。八〇年代から黒沢美香&ダンサーズのメンバーだった吉福の、シンプルでミニマルな、それでいてダンスを溜め込み瞬時に吐き出すような作風は、そのルーツ込みで興味深く、時に激しくダンスをぼくに感じさせるものである。今日は、少し観念的に見えた。
最後はNYKへと到着。能美健志&ダンステアトロン21(『空華』)とブシタギ(白井剛+スカンク+峯岸誠 今回は白井出演せず)の公演があった。
「街のあちこちにダンスが溢れる」(チラシ)がキイワードの企画。ぼくは番外編を含め三回見たことになる。どれも実に面白かった。ダンスを見る場所は劇場やスタジオとは限らない、いやそうした場所じゃない方がいいことは多いのでは、という強いく思わされた企画でもあった。
今回のトップ、金魚(鈴木ユキオ)『Focus-ミルク-』は、神奈川県立歴史博物館の脇のスペースで。動物の置物のように四つんばいで腕と首だけ機械的に動かす男の子二人を後景に、女の子が無関係に立っているところからはじまる。無関係のところで二つを繋ぐのは、気配への気づき。でも、「気づく」だけでは関係が転がっては行かない。この転がる手前のもじもじしたような時間だけが過ぎていく。最初、逆さにしたテーブルの上に仰向けに寝ていた鈴木が「無理矢理!」な感じで垂直に伸びたテーブルの脚のてっぺんに自分の両手と両足をのせていく。無理矢理よつんばいに起きあがった体は、起きあがれた成功もそこそこに片足片腕を宙にバランスを失い墜落する。最近の鈴木がよくする物とのからみは、体の強さを示しつつその強さが無意味に消費されていく虚しさのようなものを伝える、今回もそれが凄く感じられた。閉塞感、と言ってしまうとつまらなくなるけれど、あてのないむなしい可能性をただただ蕩尽する他ないといった気持ちにさせられると、リアルな感動が起きる。全然アプローチは違うのだけれど、ポツドール『夢の城』の男女と行きつく絶望は同じなのではないか、と、さえ。
次は、馬車道通りの道路を交通規制し(!)舞台にした、モモンガ・コンプレックスの『フリーター・コンプレックス』。モモンガ初見。桜美林大出身の二人(白神ももこ、高須賀千江子)らによるグループであるとのこと。タイトル通り、金のためにバイトをする女の子の張り切りと切なさとけなげさを踊る。踊りに個性が出るといいなあ、構成は結構細かくアイディアを持っているのだから、と思う。ともかく、道を隔ててこっち側が観客(しかも大入り200人くらい?)で、反対側が舞台アンド背景ということは、本物の眼鏡屋とかラーメン屋とかカレー屋とかがそこにあるわけで、正に「サイトスペシフィック」な作品であったし、そのあたりをかなり考えて作ったことでほんとに楽しい時間になった。眼鏡屋の看板おばさん(もちろん眼鏡掛けてる)がこっち見ているのをこっちから見ているってことがもう本当におかしかった。界隈の真骨頂を見たって感じで。
東京藝術大学横浜校地で、中野成樹(POOL-5)+フランケンズ『ドラマリーディング』。こちらも初見。「ドラマリーディング」というのに、無言劇。どうも12分である海外の戯曲を全部やってしまった、ということらしい。だからといって「早回し」な動きではない。内容は分からないので、ただ体の動きの表情を受けとる。物語の構造を背後に秘めた身体のひとつひとつの表情は、何かしらの必然性の下にあるわけで、分からない割には表情の魅力を淡々と受けとることができて、そのことが面白かったりした。また、演劇の身振りだけを抽出するとダンスとは違うレヴェルで運動を賞味できるのか、と教わった。
県民共済馬車道ビルのホテルのロビーみたいな場所で、矢内原美邦(ニブロール)『チョコレート』。今回は三人(矢内原、佐川智香、藤瀬のりこ)で。「見て!」と声を上げる矢内原は、少女というか幼女。脳から噴出し続けるイメージの洪水に乗っているだけで一日が過ぎてしまうころの子供。身勝手で傍若無人な子供なのに、「見て!」と相手を必要とする(で、ちょっとズルイ)。ロビーのソファなんかも使って、なんか子供だったり大人っぽかったり、不安定な気分になりながら、あまりにもいろいろなイメージにぼくも溺れだして、なんだか久しぶりに、コンテンポラリー・ダンスを見始めたときに感じたワクワク(ゾクゾク)を思い出したりした。でも、どうなんだろうな、20才くらいの観客の目には、ぼくとは違うものがきっと映っているんだろうな。ぼくが冷静になれない部分を結構クールに受けとっていたりして、分からないが。
ここからは、一旦二手に分かれる。C.l.c.o.を見ないで、元ルノアールでやった、ひろいようこ『状態系「ティータイマー」』を見た。これが、凄くよかったのだ。ひろいようこは、以前、STで子供用の鉄棒を舞台に持ち込んでそれと絡むなんて作品を作ったりした。そのときは、後半鉄棒を何度も何度も前回りし始めてからぐーんと面白くなった覚えがある。面白くなったのは、執拗な繰り返しの果てで体が勝手に運動し始めた、からだろう。今回は、最初から体があやしい。椅子があり、またテーブルにティー・カップがのっている。そこに、紅茶の入ったガラスのポットをもってひろい登場。椅子に座ると、ゆっくりこちらを見回す。その眼が何も見ていないようで見ているようでやっぱり見ていないような「不穏」を湛えている。カップに注ぐ。その音が変に乱れていてみだらで、さらに飲みながら体が急に前屈みになったり、足をすり足して音を立てたかと思うとズズズと腰が椅子からずり落ちたり、じっとしていられない。要するに、なにをしでかすかわからないのだ。次が読めない動きは、恐怖と痛快さとがない交ぜになって、眼を逸らすことが出来ない。クツを脱いでテーブルに上がると、腕を高く上げて下のカップに注ぐ。べちゃべちゃと音が響き空間がみだれる。それを涼しい眼で続けるひろい。なんかちょっとにやけてもいるぞ。あやしい(危ない!)。その腕を激しく振り落としてポットを粉々にしちゃいそうな予感さえする。こんなちっちゃな、しかもどこにでもあるカップとかポットとかのあるだけのなんてことのない空間が、こんなにも激しいレンジを蓄えてしまう。そのホラーは、からだを出来る限り解放しようとすることによってのみ生まれるものに相違ない。で、ぼくはそういうものをダンスを思い込んでいる。ダンスはリズム、でも予測不能のつねに前人未踏のリズム、何か久しぶりにそのことが確認出来たのだった、嬉しかったなー。
同じ場所で少し空間をずらし、次は吉福敦子の『The Chamber Dance in Former Coffe Shop』。八〇年代から黒沢美香&ダンサーズのメンバーだった吉福の、シンプルでミニマルな、それでいてダンスを溜め込み瞬時に吐き出すような作風は、そのルーツ込みで興味深く、時に激しくダンスをぼくに感じさせるものである。今日は、少し観念的に見えた。
最後はNYKへと到着。能美健志&ダンステアトロン21(『空華』)とブシタギ(白井剛+スカンク+峯岸誠 今回は白井出演せず)の公演があった。