Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ダンスが狂気でないならば

2006年03月28日 | Weblog
ダンスを他の芸術ジャンルに匹敵するものにしようと考える場合、方法として理知的なものへと高めると言うことがあるだろう。ぼくは、それに、端的に反対する。ダンスが狂気でないならば、ぼくはダンスを見ることを止める。というか、人がダンスと言っているものを捨ててぼくの思うダンスだけを愛好する。

最近、少し時間に余裕が出来て、土方巽のことを考えている。『土方巽全集』をゆっくりめくり、メモを取る(あるいは、土方の反映としか思えない『人造人間キカイダー』の悪の首領、プロフェッサー・ギルや『恐怖奇形人形』のことを考えたりしている)。すると、彼がどうにか確保しようとしたものが、ダンスの狂気であることが分かってくる。狂気が不在のダンスは切ない。破綻とか錯乱とか不安とかが足りない、そこへ前のめり突っ込む瞬間のないダンスは切ない。

写真は土方ではなく、最近の仮面ライダー・ショーに登場しているギル。ちなみにギル率いる悪の軍団の名は「ダーク」。

「子供というのは、欲望がいっぱいあるし、感情だけをささえに生きているために、できるだけはぐれたものにであおうとする。ところが大きくなるにしたがって、自分のはぐれているものをおろそかにして、他人との約束ごとに自分を順応させる。それではぐれていない、と過信してしまう。飼いならされてしまうわけですね。」(『土方巽全集』より)

「肉体というのは、テクノロジーの発達などによっていつも犯されつづけている。キコリとステップの国のソ連のバレー団でも西欧のバレー団以上に人工化されてしまった。ところが日本人の肉体というのは独特の空間をもっていて、犯されにくいですね。」「人間というのは、自分の一個の肉体の中にはぐれているものにであえないばっかりに、何か外側に思想でも欲望でもいいから外在化して納得したい。しかし、そういうとき、日本人の肉体というものを、けんめいにこらえながら熟視すれば、そのはぐれたものにであっていたのではないか、ということをマジメに考えるんです。」(『土方巽全集』より)

トリシャ・ブラウン2

2006年03月28日 | Weblog
下の記事に引き続き。

さて『Accumulation』というタイトルにこだわってみると、なぜダンスが「集積」であるのか、ということが気になってくる。積もるのは何か。動きが積もるのだ、と簡単に言えればいいけれど、ずっと動いているものというのは、川の流れみたいなもので、積もることからはかけ離れている。流れちゃ積もらない、どこかで止めないと。その止め、が集まって積もることが可能になる。では、その「止め」とは何か、ということが今度は問題になる。

ひとつ考えられるのは、ブラウンの一定のテンポは、あるポーズをピークとして止まる場合が多いということ。ある姿勢で静止、運動してまたある姿勢で静止、、、とこの点から見る限りでは、ポーズの連続が積もるということになるだろう。そして、これは彼女の作風を造形的に見る場合の手がかりを与えてくれるものであるに違いない(まだ精読していないけれど、『トリシャ・ブラウン 思考というモーション』の岡崎原稿はこのあたりのことを言及しているかも知れない)。形のヴァリエーションが重なっていく。それはまるで、彼女自身が描いた重なる手のドローイングのように。

ただし、もう一つ考えることは出来る。微妙な点なのだけれど、動きの印象が積み重なる、とはいえないか、と思うのだ。印象深さは目を止める(目にとまる)。カニングハム(のダンサーたち)と明らかに違うと思うのは、動きに独特の味(ニュアンス)があるところだ。単にコンセプチュアルには見えない、独特の楽しさがある。とくに手首の柔らかい動き、曲げた脚を下へと伸ばすときの反った背中の感じ、首を回す一定の優しい感じ、例えば、こうしたところは、動きの印象として見る者の記憶に蓄積されていく。

下の記事にも言えることなのだけれど、ブラウンを受けとめようとすると、両義性を意識しないわけにはいかなくなるようだ。いま書いたことは、造形性(空間性)と運動性(時間性)といった両義性あるいは(クールとハッピーの両義性?)で、下記のは統制(あるいは非ヒューマニスティックなもの)と非統制(あるいはヒューマニスティックなもの)の両義性なのだけれど、つまりは、ひとつのポイントだけでは読み解けない豊かさをもっているような気がするのだ、ブラウンは。