を見に行く(@新宿パークタワーホール)。
白井剛の急病によって森下真樹のソロ(「コシツ」の一部?)に入れ替えられたりと、ちょっとハプニングもあった今企画(3/29には横浜ダンス界隈もあるし、大丈夫だろうか白井さん)。ともかく川口隆夫と山川冬樹のパフォーマンスが素晴らしかった。
『D.D.D. 私の心臓はあと何回鼓動して止まるのか』
突然、足の低いシンバルを山川が激しくけっ飛ばすのを合図に、川口が白いマスクと白いレスラー・コスチュームをまとって1.2メートル四方ほどのテーブルに飛び込む、滑る、ずり落ちる、そしてまた乗って回転する。この小さな空間が彼のリングであり彼の舞台。仕立ては「レスリングの試合」になっており、時々休憩を挟みながら、山川のホーメイとか、心臓の鼓動を増幅させるのとか、ギター演奏などによるバラエティあるパフォーマンスが川口とタッグ状態になる。あるときは、執拗に腕が体に絡まり、まさにレスリングを見ている時のような歯がゆい気持ちにさせられたり、あるときはからだのさまざまな部位(ふくらはぎ、腹、ペニス、、、)をプルプル揺らす、ということを次々したり、またあるときは、上から油を垂らしながら、ぬるぬるの体をその小さなテーブルの上で執拗に運動させる。滑って回って、テーブルから落っこちたりもして。凄いのは、そうした一回3分ほどの時間を埋めるのに、何らのテクニックも頼りにしないということだ。何かの方法論を体に与えれば、時間をつくることは容易いだろう。けれども、何にも頼らなければ、方法ではなく、体の部位への興味や動きへの興味から時間を作る他ない、そしてそのことが川口のパフォーマンスを際立ったものにしている。またそうである体は、頼りない不確かさに満ちていて、脆弱で、見ている観客の体と親和性をもことが出来る。
脆弱ないつか死ぬ体が、よりどころなく動き続ける様は、方法に拘泥しがちな、あるいはセルフイメージに縛られがちな「暗黒舞踏」の面々よりもはるかに死をあるいは暗黒を感じさせるのだった。
白井剛の急病によって森下真樹のソロ(「コシツ」の一部?)に入れ替えられたりと、ちょっとハプニングもあった今企画(3/29には横浜ダンス界隈もあるし、大丈夫だろうか白井さん)。ともかく川口隆夫と山川冬樹のパフォーマンスが素晴らしかった。
『D.D.D. 私の心臓はあと何回鼓動して止まるのか』
突然、足の低いシンバルを山川が激しくけっ飛ばすのを合図に、川口が白いマスクと白いレスラー・コスチュームをまとって1.2メートル四方ほどのテーブルに飛び込む、滑る、ずり落ちる、そしてまた乗って回転する。この小さな空間が彼のリングであり彼の舞台。仕立ては「レスリングの試合」になっており、時々休憩を挟みながら、山川のホーメイとか、心臓の鼓動を増幅させるのとか、ギター演奏などによるバラエティあるパフォーマンスが川口とタッグ状態になる。あるときは、執拗に腕が体に絡まり、まさにレスリングを見ている時のような歯がゆい気持ちにさせられたり、あるときはからだのさまざまな部位(ふくらはぎ、腹、ペニス、、、)をプルプル揺らす、ということを次々したり、またあるときは、上から油を垂らしながら、ぬるぬるの体をその小さなテーブルの上で執拗に運動させる。滑って回って、テーブルから落っこちたりもして。凄いのは、そうした一回3分ほどの時間を埋めるのに、何らのテクニックも頼りにしないということだ。何かの方法論を体に与えれば、時間をつくることは容易いだろう。けれども、何にも頼らなければ、方法ではなく、体の部位への興味や動きへの興味から時間を作る他ない、そしてそのことが川口のパフォーマンスを際立ったものにしている。またそうである体は、頼りない不確かさに満ちていて、脆弱で、見ている観客の体と親和性をもことが出来る。
脆弱ないつか死ぬ体が、よりどころなく動き続ける様は、方法に拘泥しがちな、あるいはセルフイメージに縛られがちな「暗黒舞踏」の面々よりもはるかに死をあるいは暗黒を感じさせるのだった。