を見た(15:00開演)。
「ノイエ・タンツNeuer Tanz」とはグループ名、デュッセルドルフで15年以上活動している、とのこと。本作は、2004年に初演、その後ドイツ国内外で公演されてきたという。10人ほどの男女が、真っ白い空間にあらわれる。巨大な白い戦車の風船が膨らむ中で、ミュージカルの主題歌(?)のような曲を歌いながらにこやかにみんなで踊る。気持ち悪いくらいの楽しそうな「雰囲気」。その後、戦車はしぼみ、白いシートの下に敷かれてしまう。その上でひっきりなしに着換えをしながら(トータルで100回くらいしていただろうか)、舞台の脇に一人マイクの前に立つ男がおり、その男が「好きにならずにいられない」(プレスリー)を変な声で歌いながら、一人ずつ、ときに二人とか三人で舞台で振りをみせる。後は、1時間ほど延々、このエッジの効いていない、みせどころの乏しい振りをダンサーは踊る。「何をやっているんだろ、何を見せたいんだ??」と思いつつ1時間が過ぎる。
そのあたりでようやく分かってきたのは、ダンサーたちがしているのは振りの「フリ」だということ。考えてみれば、そもそも振り付けられるものである振りは、そのひとが自発的に行うということというよりも、基本的にはやらされるものだ。だから、振りは振りを踊るダンサーとの間に距離がどうして生じてしまう。だから、普通はその距離を縮めて、振りを身につけて、さらに振りを自在にこなしつつそこにさらに自由の仮象を引き出す、というところにまでもっていこうとする、ものだ。けれども、ノイエ・タンツはそれを頑なに拒んでいるように見えた。どこか醒めている。振りが振りの「フリ」でしかないことの前にただ立ち止まろうとしている。踊ることの快楽の拒否。それどころか、あらゆるものがリアルな出来事であると思ってしまうことさえも拒否しているように見える。例えば「ひとを叩く」ということをやる、でもそれは戯画化された「フリ」でしかない。実際に人や壁にぶつかったりすることもある。けれども、それも「当たる」ところにリアリティがない、何か酩酊したような「麻痺」の状態に見える。繰り返しへんな声で歌われる「好きにならずにいられない」は、その「いられない」という衝動が空回りする。その虚しさ、無意味さが、無気味になってくる。
すべてがアイロニーで、すべてが「~っていうフリ」と一言付けないではいられないような心情。これは端的なダンスへのアンチと言うべきだろう。執拗で強烈な否定性は、見ていて正直つらいのだけれど、リアルでもある。リアルになれないということのリアリティ、それはでも到達点というよりも出発点ではないかと思う。これは、恐らく「いま踊ること」に対する間違った理解ではない、きっと正しい、けれど、そこにいてそこから批判することですべてよし、ということでもないだろう。
「ノイエ・タンツNeuer Tanz」とはグループ名、デュッセルドルフで15年以上活動している、とのこと。本作は、2004年に初演、その後ドイツ国内外で公演されてきたという。10人ほどの男女が、真っ白い空間にあらわれる。巨大な白い戦車の風船が膨らむ中で、ミュージカルの主題歌(?)のような曲を歌いながらにこやかにみんなで踊る。気持ち悪いくらいの楽しそうな「雰囲気」。その後、戦車はしぼみ、白いシートの下に敷かれてしまう。その上でひっきりなしに着換えをしながら(トータルで100回くらいしていただろうか)、舞台の脇に一人マイクの前に立つ男がおり、その男が「好きにならずにいられない」(プレスリー)を変な声で歌いながら、一人ずつ、ときに二人とか三人で舞台で振りをみせる。後は、1時間ほど延々、このエッジの効いていない、みせどころの乏しい振りをダンサーは踊る。「何をやっているんだろ、何を見せたいんだ??」と思いつつ1時間が過ぎる。
そのあたりでようやく分かってきたのは、ダンサーたちがしているのは振りの「フリ」だということ。考えてみれば、そもそも振り付けられるものである振りは、そのひとが自発的に行うということというよりも、基本的にはやらされるものだ。だから、振りは振りを踊るダンサーとの間に距離がどうして生じてしまう。だから、普通はその距離を縮めて、振りを身につけて、さらに振りを自在にこなしつつそこにさらに自由の仮象を引き出す、というところにまでもっていこうとする、ものだ。けれども、ノイエ・タンツはそれを頑なに拒んでいるように見えた。どこか醒めている。振りが振りの「フリ」でしかないことの前にただ立ち止まろうとしている。踊ることの快楽の拒否。それどころか、あらゆるものがリアルな出来事であると思ってしまうことさえも拒否しているように見える。例えば「ひとを叩く」ということをやる、でもそれは戯画化された「フリ」でしかない。実際に人や壁にぶつかったりすることもある。けれども、それも「当たる」ところにリアリティがない、何か酩酊したような「麻痺」の状態に見える。繰り返しへんな声で歌われる「好きにならずにいられない」は、その「いられない」という衝動が空回りする。その虚しさ、無意味さが、無気味になってくる。
すべてがアイロニーで、すべてが「~っていうフリ」と一言付けないではいられないような心情。これは端的なダンスへのアンチと言うべきだろう。執拗で強烈な否定性は、見ていて正直つらいのだけれど、リアルでもある。リアルになれないということのリアリティ、それはでも到達点というよりも出発点ではないかと思う。これは、恐らく「いま踊ること」に対する間違った理解ではない、きっと正しい、けれど、そこにいてそこから批判することですべてよし、ということでもないだろう。