Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

吾妻橋ダンスクロッシング

2006年03月25日 | Weblog
を見た(@アサヒアートスクエア)。

前半後半(SIDE AとSIDE B)合わせて12作品が並んだ。2時間半。新しい作品、新しいコラボ(組み合わせ)など、意欲的な作品もあった。けれど、それらを単体で「良い/悪い」とぼくなりに言葉にすることに、あまり気が乗らないのだった。見終わったすぐ後も、またいまも。なんでだろう。もしそういうものを期待して読み始めて人がいたとすれば、悪しからず、です。例えば、赤い着物をまとった康本とのデュオのなか、康本的なダンスを通してなお濃厚に自分の匂いを発散して踊った岡本真理子は、見ていて実に新鮮だった。このシーンにとってのひとつのニュースであるに違いない。そして、「お祭り」の演目としては楽しいものだったし、康本の「らしさ」も光っていた。それは常樂泰(身体表現サークル主宰)と康本とのデュオに関してもそう。でも、内輪の遊びにどうしても見えてしまう。いや、「遊び」であるのはそもそもがお祭りなのだから、いいじゃないか、そう思う人もいるだろう。うん、それでオッケーならオッケー。でも、ぼくは欲深なもので。

あらためて。確かにこの企画は、いわばお祭りイベントだ。日本のダンスシーンの桜井氏的感性にピンと来たダンサー&振付家を使った「お祭り」、だからガチンコよりも気楽に楽しむ「アナザー・サイド・オヴ・ジャパニーズ・コンテンポラリーダンス」な企画。で、そうだから、観客はお祭りを楽しむ「縁日の客」的な気分で見ることになる、そしてある意味では、そう見る他なくなる、とも言える。ダンスは楽しいものだ、ぼくはちょっとまえあるファッション誌に日本のコンテンポラリーダンスを紹介する機会を得た時に、「ハピネス」をキイワードにした。でも、多幸感を得るための企画というだけでは、いまや弱い。不況が続く中で「ハピネス」を主張することは、重要な意味があった、その主張それ自体が批評性を帯びたものでありえた。でも、いま、日本に蔓延している気分そのものが、多幸症的になりつつある。そこで、では「クロッシング」は何をするべきなのか。ズッコケるだけでは、観客の気分を揺らすこと(批評性を持つこと)が出来ないとすれば。多分、このイベントは、ただのお祭りではないはずなのだ。桜井圭介氏の批評の実践であるはずなのだ。だから、「身勝手」と思われるくらいの「ごり押し」をぼくは見たかった。人選においてはそれが発揮されている気はしたのだけれど、ダンスの質についてはそう言えるのだろうか。「これが、いまぼくがビリビリ感じてしまうダンスなんです」と思いっきり直球勝負してほしかった。例えば、桜井氏のレクチャーでは定番になっている「ジェームス・ブラウンの歌いながら痙攣する脚」とか「印刷屋のさかいさん」とか「トーランス」のダンスとか、そういうダンスの感覚をもっとこのイベントのなかで具体化して欲しかった(それらの映像をディスプレイするとか、あるいはゴングショー的に桜井的感性に訴えるヘンな動きをしちゃう天然な人or玄人たちが10人くらい続けて出る、とか。あるいは、そうだ、できれば桜井氏の教室、南烏山ダンス教室のダンサーたちと作品がここにあったら、それだけでも見え方は変わったろう)。「ごりごり」の押し押しであることは、好き嫌いが別れるとかそういうこととは関係なく、ひとが求めている姿勢だと思うのだ。その「変な角度」(こだわり)を強く呈示することこそ、クロッシングが単なる多幸症的日本人の感性からはずれていくものになるはずなのだ。そうしてはじめて、この「お祭り」が何を祭ったものかが見えてくると思うのだ。

プログラムを

SIDE A
ボクデス「僕道一直線 ジェスチャー編」
たかぎまゆ「独り舞踏会 in吾妻橋」
康本雅子+岡本真理子「オトギ巫コ」
ぼくもとさきこ「I Get on You」
山賀ざくろ「ヘルタースケルター」
身体表現サークル「ベストセラー」

SIDE B
HINOBI「エチュード」
室伏鴻「DEAD 3」
ピンク「子羊たちの夕焼けボート」
ロマネスク高木「ある障害をもつ彼女のブルース」
康本雅子+常樂泰「ブッタもんだすって」
ボクデス「僕道一直線 ファイナルアンサー編」

それにしても、ピンクはずぬけている。ピンクの凄さを一生懸命考えると、来年の今頃のダンスシーンが見えてくる気がする。