Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ポツドール『夢の城』(@シアター・トップス)

2006年03月11日 | Weblog
を昼間見てきた。

昨晩、帰りに鶯谷の中華料理屋でSさんや早稲田の学生さんたちと餃子だの330円のチャーハンだの食べているとき、この作品のことがすごい話題になって、また今朝宮沢章夫さんのブログ見てたら、そうとう感動してみた様子が書かれてあった。これは、見ないわけにはいくまいと思い立ち、当日券をとりに並んだ。でも、本当は余り気が乗らなかったのだ。何せ、舞台上で○○なこととかが行われるとか何とか。ひとの見ても気分良くないよなー、とか思っていたので。

でも、実際に作品を見たら、そういう部分はあまり気にならなかった。むしろそういう部分も隠さずに表象するところには「真面目さ」さえ感じた。いわゆる「マンバ」「センターガイ」な(?)若者たち8人が雑魚寝して暮らす1Rアパート。ほとんど会話はない、というかいらない。会話レヴェルに持ち上げなくちゃならない「ヒューマン」な側面がまったくない者達なのだ。こういうひとが舞台に上がっている、しかもリアルなままに、そこにまず感動してしまった。

これ、でも、考えてみると「静かな演劇」に他ならないんじゃない?平田オリザが、「水槽の魚たち」を覗き込むように世界をつぶさに眺めるツールとして演劇を規定したとすれば、まさに今作が舞台上に作り上げたのはそういった「水槽」だ。ただし、そこに泳ぐ「魚」を平田氏はあらかじめ「言葉を話せる人」に限定していたのかも知れない。少なくとも、今作の登場人物は平田氏の作品には登場することが出来ない。彼らにしゃべらせたら途端におかしなことになるだろう、「まがいもの」のにおいが鼻についてくるに違いない。徹底的に彼らのリアルな状態を覗き込めるようにしたところが、今作にぼくが感動してしまったいちばんのポイントだ、うん。

また、セリフはないとはいえ、舞台は実に緻密にできあがっている。テレビのニュース映像や、テレビゲームや、漫画やチラシなどが彼らの心を微弱に揺らす。そういった「物語」とはいえないくらいの微妙な波立ちがでも、一観客としてのぼくを引き込み、執拗に見つめ続ける欲望を促す。彼らの奇妙なくらいのあっさり味な時間は、三浦氏のきわめて巧みなコントロールのなかで生まれている。そう思わずにはいられなかった。だから、噂で思い描いていたイメージとは異なり、よい演劇を見たというのが正直な感想だ。

あとひとつ、気になったのは、夕方にテレビが映していたニュースで、小学生に職業の素晴らしさを説くNPOの活動をぼけーっと彼らが見るというところ。別にそれに対して批判もなにもあらわさないのだけれど(ちょっとテレビにものぶつける的なことはするけれど)、その後、あるものはキーボードを引き出す(ショパン?)し、ある者は深夜に素振りを一人で始める。彼らはニートでだから教育が全く施されていないかと言えばそんなことはなく、ピアノも少しは弾けるし野球の経験もあるのだ、ただしそれはいまや単なるガラクタでしかないのだが。こういう、無意味な教養の積み重ねとしての人生という描写が、実に切ないし、これは彼らに限ったことではなかろうと思わされた。昨晩のPMEのメッセージみたいだけれど、子供がこの世に生まれて何の意味があるのか、ってニヒリスティックな思いを抱かされてしまう。

それにしても、本当に「ゼロ」な世界だよなあ、ここに落ちまいとしてひと(人類)は生きているのではないかという気さえする。でも、「ゼロ」であるからこそ、偽りのない世界で、妙にすがすがしく、健全で、タイトルに偽りなしとさえ最後には思わされてしまった。

*13日までタイトルが間違ってました。正しくは『夢の城』です。

PME(カナダ)『生殖行為によって家族は作られる』(@東京キネマ倶楽部)

2006年03月11日 | Weblog
を見た。

「おばさん」と「女の子」と「おじさん」の三人が、Tシャツにジーンズ姿で、ときどきマイクに向かいながら、個人的な考えを語るといった形式。背は高いけれど、三人とも小太りで体型が似ている。テーマは家族。で、恐らく三人は家族で、いやそうでもないように見えるときもあり、あまり役者としてもダンサーとしてもパフォーマーとしても鍛え上げられていない身体が、ぶらぶらと呟く、そこに案外引きつけられる。

ともかくも、「家族」というテーマは新鮮だ。劇中に親子や家族が表象されることは珍しくないけれども、家族とは何か、生殖(子作り)とは何か、とメタレヴェルで語りかけるものは、あまり見たことがない(あ、でもチェルフィッチュ『目的地』には「子供が出来ない」という話題が出てきたか)。本気かどうかが定かではないのだが、「メッセージ」として上がってくるのは、「子供は産まない方がよい」ということ。今のこの世の中に新たに子供が生まれて何になるんだ、親の理想なんて絶対引き受けるわけないし、くだらないものに手を染めるに違いないし、そんなんだったら生まれない方が子供にとっても幸福なはずだ、と。レイプや近親相姦、無意味な日常、それらを通して語られるこういったメッセージには、真理が含まれているとは思う。とはいえ、この結論は、あまりにニヒリスティックで自己完結的で、知的で、完璧主義的だ。この思想の背景にあるのは、理想主義の裏返しに生まれる恐怖や不安だ。何か、この恐怖や不安から絶対的な結論が導き出されちゃう感じ、中間で起きることが省かれてしまっている感じが、(いまの日本のメンタリティにも通じる)現代的な何かなのかな、とは思うけれど。

ともあれ、こうした言葉レヴェルはともかくとして、三人の少しむちむちした体が絡み合うといったシーンが最初の方と最後の方にあったのだけれど、そこがよかった。「ラオコーン像」みたいというか、クロソフスキーのデッサン画みたいな、妙な絡まり感があって、互いに生っぽいからだに触れながら性的な力のバランスが次第に変化していくところに引きつけられた(どうもぼくは最近、何かを彫刻として見てしまう傾向があるのですが、まさにこれも)。

鶯谷の会場で20時開演だったので、その前にお腹を満たそうと新大久保のサムゲタンの店へ。一週間くらい前に、ラジオで紹介していた「新大久保駅歩いて五分」というまったくもって頼りない情報だけを頼りに、小雨の中。それでも、見つかるもんだ、そして実に美味だった。一杯2500円は正直思わぬ出費になってしまったけれど、ミョンドンで食べた1000円の「百済サムゲタン」のサムゲタンより倍くらい美味かった。店のオジサンも、「百済~」より美味しいよ、だってトリとは別にスープを作っているからスープ白濁していないでしょ、と自信有り。「高麗漢方サムゲタン」美味かったです。

『スジナシ』

2006年03月10日 | Weblog
最近、家の近くのTSUTAYAがリニューアルして、品揃えがぐっと増えた。そのなかで、見られるようになったひとつは『見仏記』で、もうひとつが『スジナシ』。笑福亭鶴瓶が俳優と即興的な10分ドラマをつくる、そして後でそれを二人で見て振り返る、そういう東海地域限定の番組のDVD。

ごくごく簡単なシチュエーションだけが与えられていて(「部室」「ホテルのロビー」「築四十年フロなしアパート」など)、後は二人で。一応は、「物語」なるものを二人でひねり出していくのだけれど、興味深いのは、後半になってきて、物語の「意味」が少しずつ絞り出されてくるあたりで、共演の俳優がもっている人間性が如実にあらわれてくるところ。そのひとそのものがもっている心の形が次第に明らかになってくる。そういう点では、多分、鶴瓶にとっては、トーク番組作るのとさほど変わらないのだろう。話し相手の「人間」を引き出すという意味では。

これを見ていると、演劇を見るということは、役者を見るということであり、単に「役柄になっている役者」のみならず、「役者そのもの」を見るというところがある、ということが分かる。役柄の鎧を被りながら、その鎧越しに役者を見るところが、観劇にはある。実は、演劇を見る面白みは、鎧と役者との間の隙間にあるのではないか、とさえ思う。

そして、演劇はやっぱり「会話」だな、とも思う。二人の俳優が、即興的にしゃべる。そのときに、相手の会話を遮ることも一案だけれど、徹底的に無視することは出来ない(無視してもあまり意味がない)。「会話」の状態にどのくらいいろいろなものを詰め込めるか。内容というか、関係の厚みのようなものを。良かれ悪しかれ。演劇は「会話」だ、と思った。

そんな、演劇のもっとも根源的なところに触れちゃっている気がするこの番組、ぼくが見たなかでは、渡辺えり子、妻夫木聡、大竹しのぶ、吉田日出子、中島らもが印象的だった。


今日はこれからPME『生殖行為によって家庭は作られる』(@東京キネマ倶楽部)へ、カナダのグループだというがどうなんだろ、楽しみだ。

『八月の濡れた砂』

2006年03月09日 | Weblog
朝から、ある研究室の紀要に書いた原稿(「二〇世紀のダンスにおける観客論 モダンダンスから暗黒舞踏まで」というタイトル)の校正をこつこつこつ。この半年くらいで、四本くらい書いてるんだよな、いわゆる研究論文。いくらなんでも書きすぎだ。だから、ある時期に異様なほど校正の仕事が押し寄せてしまう(そんで、そもそも何かをフィニッシュさせることが凄く嫌いなのだ、「生む」と言うより「息の根を止める」って感じがしちゃうのですね、原稿を仕上げるって、何でか)。でも、全然、書ききった気がしない。もっと書きたいのだった。あれとか、これとか、なんとかかんとか。

そんで、8時半くらいからいつものように朝食を食べながらAと会話。観客論を書くとき、その分類をするならば、もっと形容詞を多用した方が良いんじゃないかとのAからの意見に頷く(会話の8割がこういう専門性の高い話題って、考えると凄いな)。そう、「図々しい」とか「ふてぶてしい」とか「シャイ」とか、最近このブログでも形容詞が文章にいろいろと浮上してくるようになってきた、し。分かりやすくなるよな、とかなんとか。

そんでAといえば、最近、ぼくの「つぼ」をグビグビで披露してくれちゃってますが、あの「パンダ」はやっぱり凄いですね。あたまが「ぼわー」としてきますね。パンダと色が似ているけれど、だから好きだというわけではない「おかず」(写真のネコ)。こいつ、甘えるときは異常なくらい甘える(寄せてくる)のに、本心でぼくを信用していないようで、不意に驚いて逃げちゃったり、外で出会っても他人のような素振りを見せる(日曜日にスーパーで会っちゃったクラスメイトじゃないんだから、無視すんなよ!シャイなんだから)。この「どこまでも不可解」がおかずの魅力で、不可解が差し挟まれているからこそ、ボクとおかずは「2」であり続けている。N極とN極の出会いのように、バウンドしながら簡単には接触しない。この他人感はときに苛立たしかったりするのだけれど、苛立たしいくらいの関係が結構ぼくは好きだ。永遠に謎であるものとしてのおかず。
ダンス(の公演)というものもそれくらい謎だったり苛立たしかったりしていいんじゃなかろうか。ぼくにとって「おかず」以上か否かは結構最近の基準。

で、
まさに動物みたいな男どもが無防備な女の子をレイプしたり自殺させちゃったり、今の時代だったら散々な評価を受けそうな藤田敏八の『八月の濡れた砂』を何故かDVDで見た。これぐらい(若い男どもの)「鬱屈」を放散するだけの映画が今あってもいいとは思うが、やっぱり「放散」する一部のものの影には、新たな「鬱屈」を抱える人がいるわけで、そういうことに敏感な今の時代では、だから、こんな無邪気な映画は作れないよな、ともかくも。

彫刻

2006年03月08日 | Weblog
そう、最近、彫刻のことをよく考える。

『見仏記』(DVD)を見ているというのもその一つだと思うのだけれど、彫刻が気になって仕方がない。とくにそんな気持ちになったのは、街角で突然でくわす彫刻がたまらなくヘンナモノに思えたときからだ。まあ、よくある、例のあれ、です。それがなにやら急に不可解に思えてきたのだ。いちばん強く覚えているのは、一ヶ月くらい前だったろうか。Aと一緒に久しぶりに「ニートの街」に帰郷したときに、家族そろって能を見たのだけれど、その会場(文化会館)の脇に、ややふっくらした裸の女性があごを挙げて腕もあげて立っていたのだった。これを「文化」のひとつと思える「文化人」は見過ごせるのだろうけれど、野蛮(田舎者!)なボクはどうにもこうにもヘンナモノに見えてしようがない。しかも、からだのバランスが微妙に変なのだ。その「変な感じ」をこちらは「文化」の一つだと思わなきゃならないようで(そう強制されているような気がしません?)、そんな彫刻の「ふてぶてしさ」にちょっと感嘆(あきれ?)させられてしまった、のだ。しかも、ほっとくと100年も1000年も残ってしまうのだ。すごい、強情。

考えると、彫刻というのは、実にシュルレアリスティックな代物だ。イメージの世界を3D状態で現実の世界にドカッと置いてしまう(それが、例えば、フィギュアを見るときの違和感の理由じゃなかろうか?とかなんとか)。非現実がわがままに現実に居座っている、それが彫刻だろう。そんな彫刻の「邪魔」感が実に興味深い。しかも、人体彫刻だと、その存在感がからだにリアルに来る。ズレが体に急襲してくる、煩わしい。それに大体、彫刻は空間を取る、そして大抵重い。またその場の空気感を変貌させてしまう。自宅に、ミケランジェロの「囚人」とかあったら、たまらないよな、作品としてはすごくすごく好きなのだけれども。

こういう彫刻の性格は、時代に逆行していて、であるからして、いまいちばん魅力的なものかも知れない。データ化しにくい代物、であるからこそ彫刻はユニークと言える。「図々しさ」、彫刻はそんな自分の性格に自覚的であればそれだけその可能性を発揮出来ているのではないだろうか。

で、

ダンサーというのも、こういうところがある気がするんですね。空間に対してまず「図々しく」存在しているのがダンサーだ、と。空間をかき混ぜることは、それがどんなに「芸術」あるいは「文化」的行為と見なされているものであれ、「図々しい」には違いない。その性格に自覚的であればあるほど、きっとそのダンスは興味深いものになるはずだ。少なくとも、「反省」がきいていて、味わいが増しているはずだ。少なくともその方が、観客を傍観させる位置に置く停滞を引き起こさずにいられる、はず。

とはいえ、ダンサーは踊りが終われば、ふいっとその空間から消えてしまうので、彫刻に比べ遥かに「潔い」。その「潔さ」が良かれ悪しかれ彫刻と区別されるダンサーの特徴だとも思う。

ということで、やっぱり「シャイネス」の話になってしまった。「シャイネス」というか「シャイネス」と「図々しさ」は裏表なんじゃないか、という話。

『見仏記』とか『スジナシ』とかに励まされていたこの一ヶ月

2006年03月08日 | Weblog
Unknown (Unknown)

2006-03-08 00:41:33

アンタ何様のつもり?

偉そうに。

このセンス無しの田舎者。


さっき、上記のコメントが貼り付けられているのを見ました。
面白いな。凄い。ひとは多分当人の目の前でこれだけストレートな(自分の思いについての)発言しないですよね。それがブログとかネットとかだと出来るというか、やってしまうというかやりたくなってしまうと言うことが、凄いなー、面白いなー。こういう感覚があるのは分かっていたけれども、自分に向けられるとあらためて考えてしまう。上記の発言のひとつひとつには、多分当人のなかにそう言いたい理由があるのだと思うのだけれど、そういう理由は書かれることなくただ「ペッ」とつばを吐くみたいにこういう言葉を残す。こういう感情の発露がうまくいかず、こじれている状態というのが「いま」なのだろうな(というか、ぼくとしては少し古い感性という気もするのだけれど)。ところで、昨日見た映画「RIZE」では、怒りを踊るということを集団でやっていて、平気で友達同士や恋人同士でも「ドツキ」ながら踊っていた。それは怒りを表現(マイム)する「怒りのダンス」ではなく、本当の怒りを踊りのなかで昇華させるといったものだった。まあ、それをアフリカ系アメリカ人の「ルーツ」と絡ませ、つまりアフリカの部族の踊りとロスの若者の踊りとを交互に並べて類似性を強調するシーンとかはちょっと「やりすぎ」「つなげすぎ」にも思えたけれど。でも、ルーツは各人の踊りの深いところを規定しているもののようにも思わされた。日本人がヒップホップを踊ることの限界は、そういう点でやはりきっとあるのだろう。

でも、「田舎者」という一言は当たっているなあ。事実としてぼくは田舎者だし、(西洋近代)市民的な洗練とか奢侈とかに憧れつつ警戒しているところがあるし。それがフォーサイスに対する不満足(もちろん期待の裏返しの)に繋がっているんだけれど。田舎者じゃなきゃ、フォーサイス公演にこういう意見書かないよな、きっと。


再開

2006年03月07日 | Weblog
再開します。

いまは、回転させていた頭が空回りして、「ぽっかり」状態です。
2月中頃から今日までに、ここに書くべき公演を沢山見ました。忙しいながらも良い企画が多い時期だったので、無理してみたものも結構ありましたが、無理がきかなくて見過ごしたものもいくつもあります(「踏みはずし」企画のオトギノマキコ、下北沢のカフェで踊ったKATHY、プリコグ企画、、、残念。でも、なんだよ、見なかったの好きな人たちのばかりじゃん、嗚呼!)。

あの、最近、ぼくのなかで静かな変化(うねりのようなもの)が起きています。
どう言ったらいいのか、、、何が魅力的で何がそうではないかの「照準」がはっきり定まってきた、というのか。
何が問題なのか、何が押しつぶされているのか、何を支持するべきなのか。
少しずつ、ここで書きながら考えていこうと思っています。

本当は、フォーサイス見た感想とか書きたいのですが、それよりもいま映画「RIZE」見てきたので、これのことから。
シンプルに言えば、こういうダンスこそぼくが見たいもの、ということがよく分かりました。
踊ることに必然性のあるダンスというか、切実なダンスというか、本気の、リアルなダンス。
多分、「ダンス」というものを単体で引き出してきても余り意味がなくて、ダンスをする人それを見る人、それを踊る場所が相互に作用して、相乗効果を上げている状態があってこそ、こういうダンスはあらわれる、と思うんですね。冒頭で、「クラウン」の格好で幼稚園とか路上とかで子供たちの誕生日を祝うことを自らの「活動」にしている一団があらわれるんだけれど、彼らを待ち望んでいる子供たちの様子とか、路上の感じとかが大層よくて、ダンスを中心によい循環がぐるぐるぐるぐるしているのがよく分かる。彼らの一人が、「なんで顔白く塗ってこんなコトしているの?」とインタビューされて「んー、ひとを喜ばせたいからかな」って言うときの感じが、とくに「ことの真相」を告げている気がした。ヒップホップのダンスを踊る理由が「ひとを喜ばせたい」なんてなんていいんだろう!一体、どれだけのコンテンポラリーダンスのダンサーが、「ひとを喜ばせる」ために踊っているだろうか。って思っちゃいますね。もう終わっちゃいそうなので、コンポラ関係の人たちにこそ、是非見てもらいたいです(とくにダンサー)、と強調しておきます。

それにしても、土曜日の横浜ダンス界隈は凄かった。凄かったですよね。もう「無茶!」と言いたくなるくらい贅沢な時間でした。底力を感じました。闇夜のコンクリにへばる室伏鴻とか、ちょっと「鎌鼬」な一瞬だった。あと、山賀ざくろはやっぱり今年の台風の目ですよ。凄いですよ。ここに速く追いつかないと、置いてかれちゃいますよ、ってな作品でした。「るる ざざくろ」は、ほうほう堂ファンとか、山賀ファン(いるのか?)とかそういうレヴェルではなく、多分、コンポラ界で今年前半の見るべき(マスト)公演になるに違いありません(また、そうであれ!)。

ひとこと、備忘録的に。
フォーサイスとくに日曜日のBプロ見ながらぼくはずっと西尾康之の彫刻のこと考えていた(ガンダム展の「セイラマス」も良かったけれど、山本現代で見た最新作も凄かった。ところで、最近、彫刻のことばかり考え中。ダンスは片づけの楽な彫刻?とかなんとか)。西尾の作品は、指の痕跡が気持ち悪いくらい生々しく残っているんだけれど、その指の痕跡みたいに見えた、ダンサーが。フォーサイスの指たちとしてのダンサー。「個性」はたかだか小指と親指の違い程度しかなく、そんな指はそれぞれに動いてはいるものの、「方法」がそこに内蔵されていることは明らかで、破裂するような動きの瞬間も、その方法から演繹してみてしまう。まあ、その破裂のような速くて強いまた繊細で魅力的な描かれる線は、確かに魅力的味わいがあるというか、楽しめる。「水しぶき」の軌道みたいな。でも、それは方法なんだよ、そして、その指には、西尾のもっている「気持ちが悪いくらい生々しい」ものはない。実にクリアーで、「バレエ」だ。それは知的だけれど、野蛮ではない。こういう「知的だけれど野蛮じゃないんだよなー」的な不満を人はもうもっていないんですかね。「知的」だけでオッケーっていう会場の空気は、「格差社会」日本って雰囲気でちとうんざりしてしまう。まあ、音響とかで適度に「野蛮」演出しているんですけれど、何せ、ダンスがね、そうじゃないのですよ。