Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『八月の濡れた砂』

2006年03月09日 | Weblog
朝から、ある研究室の紀要に書いた原稿(「二〇世紀のダンスにおける観客論 モダンダンスから暗黒舞踏まで」というタイトル)の校正をこつこつこつ。この半年くらいで、四本くらい書いてるんだよな、いわゆる研究論文。いくらなんでも書きすぎだ。だから、ある時期に異様なほど校正の仕事が押し寄せてしまう(そんで、そもそも何かをフィニッシュさせることが凄く嫌いなのだ、「生む」と言うより「息の根を止める」って感じがしちゃうのですね、原稿を仕上げるって、何でか)。でも、全然、書ききった気がしない。もっと書きたいのだった。あれとか、これとか、なんとかかんとか。

そんで、8時半くらいからいつものように朝食を食べながらAと会話。観客論を書くとき、その分類をするならば、もっと形容詞を多用した方が良いんじゃないかとのAからの意見に頷く(会話の8割がこういう専門性の高い話題って、考えると凄いな)。そう、「図々しい」とか「ふてぶてしい」とか「シャイ」とか、最近このブログでも形容詞が文章にいろいろと浮上してくるようになってきた、し。分かりやすくなるよな、とかなんとか。

そんでAといえば、最近、ぼくの「つぼ」をグビグビで披露してくれちゃってますが、あの「パンダ」はやっぱり凄いですね。あたまが「ぼわー」としてきますね。パンダと色が似ているけれど、だから好きだというわけではない「おかず」(写真のネコ)。こいつ、甘えるときは異常なくらい甘える(寄せてくる)のに、本心でぼくを信用していないようで、不意に驚いて逃げちゃったり、外で出会っても他人のような素振りを見せる(日曜日にスーパーで会っちゃったクラスメイトじゃないんだから、無視すんなよ!シャイなんだから)。この「どこまでも不可解」がおかずの魅力で、不可解が差し挟まれているからこそ、ボクとおかずは「2」であり続けている。N極とN極の出会いのように、バウンドしながら簡単には接触しない。この他人感はときに苛立たしかったりするのだけれど、苛立たしいくらいの関係が結構ぼくは好きだ。永遠に謎であるものとしてのおかず。
ダンス(の公演)というものもそれくらい謎だったり苛立たしかったりしていいんじゃなかろうか。ぼくにとって「おかず」以上か否かは結構最近の基準。

で、
まさに動物みたいな男どもが無防備な女の子をレイプしたり自殺させちゃったり、今の時代だったら散々な評価を受けそうな藤田敏八の『八月の濡れた砂』を何故かDVDで見た。これぐらい(若い男どもの)「鬱屈」を放散するだけの映画が今あってもいいとは思うが、やっぱり「放散」する一部のものの影には、新たな「鬱屈」を抱える人がいるわけで、そういうことに敏感な今の時代では、だから、こんな無邪気な映画は作れないよな、ともかくも。