を昼間見てきた。
昨晩、帰りに鶯谷の中華料理屋でSさんや早稲田の学生さんたちと餃子だの330円のチャーハンだの食べているとき、この作品のことがすごい話題になって、また今朝宮沢章夫さんのブログ見てたら、そうとう感動してみた様子が書かれてあった。これは、見ないわけにはいくまいと思い立ち、当日券をとりに並んだ。でも、本当は余り気が乗らなかったのだ。何せ、舞台上で○○なこととかが行われるとか何とか。ひとの見ても気分良くないよなー、とか思っていたので。
でも、実際に作品を見たら、そういう部分はあまり気にならなかった。むしろそういう部分も隠さずに表象するところには「真面目さ」さえ感じた。いわゆる「マンバ」「センターガイ」な(?)若者たち8人が雑魚寝して暮らす1Rアパート。ほとんど会話はない、というかいらない。会話レヴェルに持ち上げなくちゃならない「ヒューマン」な側面がまったくない者達なのだ。こういうひとが舞台に上がっている、しかもリアルなままに、そこにまず感動してしまった。
これ、でも、考えてみると「静かな演劇」に他ならないんじゃない?平田オリザが、「水槽の魚たち」を覗き込むように世界をつぶさに眺めるツールとして演劇を規定したとすれば、まさに今作が舞台上に作り上げたのはそういった「水槽」だ。ただし、そこに泳ぐ「魚」を平田氏はあらかじめ「言葉を話せる人」に限定していたのかも知れない。少なくとも、今作の登場人物は平田氏の作品には登場することが出来ない。彼らにしゃべらせたら途端におかしなことになるだろう、「まがいもの」のにおいが鼻についてくるに違いない。徹底的に彼らのリアルな状態を覗き込めるようにしたところが、今作にぼくが感動してしまったいちばんのポイントだ、うん。
また、セリフはないとはいえ、舞台は実に緻密にできあがっている。テレビのニュース映像や、テレビゲームや、漫画やチラシなどが彼らの心を微弱に揺らす。そういった「物語」とはいえないくらいの微妙な波立ちがでも、一観客としてのぼくを引き込み、執拗に見つめ続ける欲望を促す。彼らの奇妙なくらいのあっさり味な時間は、三浦氏のきわめて巧みなコントロールのなかで生まれている。そう思わずにはいられなかった。だから、噂で思い描いていたイメージとは異なり、よい演劇を見たというのが正直な感想だ。
あとひとつ、気になったのは、夕方にテレビが映していたニュースで、小学生に職業の素晴らしさを説くNPOの活動をぼけーっと彼らが見るというところ。別にそれに対して批判もなにもあらわさないのだけれど(ちょっとテレビにものぶつける的なことはするけれど)、その後、あるものはキーボードを引き出す(ショパン?)し、ある者は深夜に素振りを一人で始める。彼らはニートでだから教育が全く施されていないかと言えばそんなことはなく、ピアノも少しは弾けるし野球の経験もあるのだ、ただしそれはいまや単なるガラクタでしかないのだが。こういう、無意味な教養の積み重ねとしての人生という描写が、実に切ないし、これは彼らに限ったことではなかろうと思わされた。昨晩のPMEのメッセージみたいだけれど、子供がこの世に生まれて何の意味があるのか、ってニヒリスティックな思いを抱かされてしまう。
それにしても、本当に「ゼロ」な世界だよなあ、ここに落ちまいとしてひと(人類)は生きているのではないかという気さえする。でも、「ゼロ」であるからこそ、偽りのない世界で、妙にすがすがしく、健全で、タイトルに偽りなしとさえ最後には思わされてしまった。
*13日までタイトルが間違ってました。正しくは『夢の城』です。
昨晩、帰りに鶯谷の中華料理屋でSさんや早稲田の学生さんたちと餃子だの330円のチャーハンだの食べているとき、この作品のことがすごい話題になって、また今朝宮沢章夫さんのブログ見てたら、そうとう感動してみた様子が書かれてあった。これは、見ないわけにはいくまいと思い立ち、当日券をとりに並んだ。でも、本当は余り気が乗らなかったのだ。何せ、舞台上で○○なこととかが行われるとか何とか。ひとの見ても気分良くないよなー、とか思っていたので。
でも、実際に作品を見たら、そういう部分はあまり気にならなかった。むしろそういう部分も隠さずに表象するところには「真面目さ」さえ感じた。いわゆる「マンバ」「センターガイ」な(?)若者たち8人が雑魚寝して暮らす1Rアパート。ほとんど会話はない、というかいらない。会話レヴェルに持ち上げなくちゃならない「ヒューマン」な側面がまったくない者達なのだ。こういうひとが舞台に上がっている、しかもリアルなままに、そこにまず感動してしまった。
これ、でも、考えてみると「静かな演劇」に他ならないんじゃない?平田オリザが、「水槽の魚たち」を覗き込むように世界をつぶさに眺めるツールとして演劇を規定したとすれば、まさに今作が舞台上に作り上げたのはそういった「水槽」だ。ただし、そこに泳ぐ「魚」を平田氏はあらかじめ「言葉を話せる人」に限定していたのかも知れない。少なくとも、今作の登場人物は平田氏の作品には登場することが出来ない。彼らにしゃべらせたら途端におかしなことになるだろう、「まがいもの」のにおいが鼻についてくるに違いない。徹底的に彼らのリアルな状態を覗き込めるようにしたところが、今作にぼくが感動してしまったいちばんのポイントだ、うん。
また、セリフはないとはいえ、舞台は実に緻密にできあがっている。テレビのニュース映像や、テレビゲームや、漫画やチラシなどが彼らの心を微弱に揺らす。そういった「物語」とはいえないくらいの微妙な波立ちがでも、一観客としてのぼくを引き込み、執拗に見つめ続ける欲望を促す。彼らの奇妙なくらいのあっさり味な時間は、三浦氏のきわめて巧みなコントロールのなかで生まれている。そう思わずにはいられなかった。だから、噂で思い描いていたイメージとは異なり、よい演劇を見たというのが正直な感想だ。
あとひとつ、気になったのは、夕方にテレビが映していたニュースで、小学生に職業の素晴らしさを説くNPOの活動をぼけーっと彼らが見るというところ。別にそれに対して批判もなにもあらわさないのだけれど(ちょっとテレビにものぶつける的なことはするけれど)、その後、あるものはキーボードを引き出す(ショパン?)し、ある者は深夜に素振りを一人で始める。彼らはニートでだから教育が全く施されていないかと言えばそんなことはなく、ピアノも少しは弾けるし野球の経験もあるのだ、ただしそれはいまや単なるガラクタでしかないのだが。こういう、無意味な教養の積み重ねとしての人生という描写が、実に切ないし、これは彼らに限ったことではなかろうと思わされた。昨晩のPMEのメッセージみたいだけれど、子供がこの世に生まれて何の意味があるのか、ってニヒリスティックな思いを抱かされてしまう。
それにしても、本当に「ゼロ」な世界だよなあ、ここに落ちまいとしてひと(人類)は生きているのではないかという気さえする。でも、「ゼロ」であるからこそ、偽りのない世界で、妙にすがすがしく、健全で、タイトルに偽りなしとさえ最後には思わされてしまった。
*13日までタイトルが間違ってました。正しくは『夢の城』です。