Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『スジナシ』

2006年03月10日 | Weblog
最近、家の近くのTSUTAYAがリニューアルして、品揃えがぐっと増えた。そのなかで、見られるようになったひとつは『見仏記』で、もうひとつが『スジナシ』。笑福亭鶴瓶が俳優と即興的な10分ドラマをつくる、そして後でそれを二人で見て振り返る、そういう東海地域限定の番組のDVD。

ごくごく簡単なシチュエーションだけが与えられていて(「部室」「ホテルのロビー」「築四十年フロなしアパート」など)、後は二人で。一応は、「物語」なるものを二人でひねり出していくのだけれど、興味深いのは、後半になってきて、物語の「意味」が少しずつ絞り出されてくるあたりで、共演の俳優がもっている人間性が如実にあらわれてくるところ。そのひとそのものがもっている心の形が次第に明らかになってくる。そういう点では、多分、鶴瓶にとっては、トーク番組作るのとさほど変わらないのだろう。話し相手の「人間」を引き出すという意味では。

これを見ていると、演劇を見るということは、役者を見るということであり、単に「役柄になっている役者」のみならず、「役者そのもの」を見るというところがある、ということが分かる。役柄の鎧を被りながら、その鎧越しに役者を見るところが、観劇にはある。実は、演劇を見る面白みは、鎧と役者との間の隙間にあるのではないか、とさえ思う。

そして、演劇はやっぱり「会話」だな、とも思う。二人の俳優が、即興的にしゃべる。そのときに、相手の会話を遮ることも一案だけれど、徹底的に無視することは出来ない(無視してもあまり意味がない)。「会話」の状態にどのくらいいろいろなものを詰め込めるか。内容というか、関係の厚みのようなものを。良かれ悪しかれ。演劇は「会話」だ、と思った。

そんな、演劇のもっとも根源的なところに触れちゃっている気がするこの番組、ぼくが見たなかでは、渡辺えり子、妻夫木聡、大竹しのぶ、吉田日出子、中島らもが印象的だった。


今日はこれからPME『生殖行為によって家庭は作られる』(@東京キネマ倶楽部)へ、カナダのグループだというがどうなんだろ、楽しみだ。