Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

artscape10月分 「プレシオジテ」

2009年11月03日 | Weblog
artscapeのレビュー今月分がアップされました。神村恵、ハイバイ、ままごと、菊地+大谷『アフロ・ディズニー』、小林耕平などについて書きました。

artscape原稿は、いつも月末に戦争みたいな状態で書く。本当は20日くらいに提出することになっているのだが、いつも遅れる。月末に公演が多い(気がするんですが、、、)のは理由の一つだけれど、遅れてしまうことに変わりはない。編集のSさんには迷惑をかけっぱなしである。だから言うのではないのだけれど、Sさんはぼくのなかでハイクオリティの編集者のひとりで、彼の校正はとても丁寧で的確だ。原稿がへろへろになっているところはちゃんと「だめ」がでる。毎回感謝の気持ちでアップを待つ(月頭)。

昨日の午後は、講義はなかったが大学に行って「プレシオジテ」について調べていた。金曜日の「美学」の講義で話そうと思っている。先週は「宮廷人の書」を書いた16世紀のカスティリオーネがまとめた「さりげなさ」論を概観した。今週はちょっと現代に近づいて17世紀。「プレシオジテ」とは、「言葉と礼儀作法に極度の洗練を求めようとする傾向」のことで、十七世紀、フロンドの乱以後「王に忠実であった者も含め、貴族たちは皆フロンドの乱で財産を失った。こうした状況では、持参金が貧弱な若い貴族の娘たちには適当な縁談がなかなか見つからない。若い貴族の娘たちは、自慢の美貌が色褪せていくのをただ黙って見ているしかなかった。」「縁談が決まるまでの間に、自分にいかに「高い価値[値段]をつける」か(「才女(precieuse)」の語源は、「高い価値をつける(donner du prix)」からきている)にかかっていた。恋が報われないのを、頭のよさで埋め合わせようとしたのである。」

ようは、「耳年増」と言えばいいのだろうか、経験はないのに知識ばかりが充満している恋愛至上主義者達。恋愛とはかくあるべしと小説などで蓄えた「観念としての恋愛」のなかに生きている行きそびれた女たち。気取った振る舞い、気取った技巧的な話しぶり、彼女達は繊細だけれど、繊細さもこれ見よがしになれば嫌悪の対象になる。

「才女たちの中にも、ほんの一握りは、実に繊細な感受性を備えた女性がいることは認めましょう。ですが、才女として振る舞っている女性の大部分は、繊細な感受性をことさらに振りかざすものですから、人の目に滑稽に映るのです。」(ちなみに、引用はすべて『モリエール全集』所収の研究論文・資料より)

「わざとらしさ」の典型が、彼女たちなわけである。

「プレシオジテ」な女達、プレシューズを笑いの対象にした戯曲がある。当時のコメディ作家・モリエールの「滑稽な才女たち」。先日、『才女気取り』というタイトルで、コメディ・フランセーズが上演したDVDを購入した。これが面白い。なんというか、とても現代的なところがある。まああえて言えば腐女子ですよ、これは。妄想を生きてしまう女というのは、決して今日(だけ)の話ではない。例えば、研究者はこんな言い方で、「仮想現実」を生きる17世紀の女性についてこう論じている。

「世間知らずの「才女」たちは、何も事件が起きない生活に憤り、これはおかしいと言いたてる。小説の中で示された道筋を外れたものは、本物ではないのだ。この恐るべきイデオロギーを持った滑稽な才女たちは、まるでその道の専門家のようにきっぱりと、前代未聞の教義を押し付け、あっけにとられているゴルジビュスとマロットにとって未知の王国を明らかにしてやるのだ。この仮想現実の世界では、現実の世界の秩序が完全に転倒しているため、現実の世界のどんなに礼儀正しい行い(ここでは本物の求婚者たちの行動)も、軽蔑の対象となってしまうのである。仮想現実世界のルールに反した求婚者たちは、ひどく侮辱的な扱いを受けることになる。」(296)


今日はまだ走っていない。これから。長く走ろうかな。最近のランニング界の流行は、LSR(ロング・スロー・ランニング)と聞くし。

最新の画像もっと見る