Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

S.グリーンブラット『ルネサンスの自己成型』

2006年03月21日 | Weblog
を読んでいると元気が出て来る。

「その[ルネサンス的行動]様式を私は即興演技と呼ぶことにするが、それによって私が意味するのは、予期されなかったものを利用し、また、与えられた素材を自分のシナリオに沿うように変形させる能力である。即興演技といっても、ここで必要なのは、興に応じる当意即妙の才より、固定され確立されているように見えるものを自分の都合に合わせて把握する能力である。実際、カスティリオーネを初め多くのルネサンス人がよく理解していたように、即興演技に見られる咄嗟の機転という性格自体が、往々にして、計算された仮面、周到な準備の所産である。逆に、筋たてというものは、文芸的なものであれ行動上のものであれ、すべて必ず、その起源を、形式の整合に先立つ瞬間--与えられた利用可能な素材が新たなかたちに矯められる、そういった実験的で偶発的な衝動の瞬間--に持っている。どこまでが純粋に意図して用意されたもので、どこからが純粋に偶然の産物なのかなど、特定出来るものではないのだ。本質的なのは、繰り返し原住民の既存の政治的ならびに宗教的構造に、さらには心的構造にすら、巧みに入り込んで、そういった構造を自分たちに有利なように変えてしまうヨーロッパ人の能力である」

サーフィンのように、あらかじめ示されている物語や役割に乗っかりながらも、そこに同一化しないで(半ば同一化しつつ半ばそこから抜け出そうとして)自らの都合でその状況を次々と読みかえ書きかえる、拘泥しない。そうした能力がグリーンブラットの言う「役割演技」。ここにあるのは、自己の欲望の肯定であり、決定論的思考から自由であるための「術」である。

それは、自分から自由であることでもある、すなわち、

「即興演技は、まず第一に、役を演ずる--たとえごくわずかのあいだでも、そして、内面的には保留しつつであろうとも、自分を他者に変容させる--能力と意欲に依拠している」

「演技」とは多分、「演劇」と入れ替えることはできない(たとえグリーンブラットが『オセロウ』のイアーゴウをもとにこのことを説明しているとしても、重要なのは『オセロウ』の劇的構造よりもイアーゴウの生き方=即興演技だから)。むしろこうした「演技」が表にあらわれる可能性の場は、ダンスにある、とぼくは思っている。何かに「なり」ながら「なりきる」ことではなく、いわば生き抜くために一旦「なってみる」、そうしたパフォーマンスの場は、ダンスのなかにある(あった)。

ぼくがダンスにこうした「即興演技」の豊かさを期待することは、何か「間違い」なのかも知れない。ときどきスッーと背中を冷気が流れるようなそんな気持ちとともに、そう思うことがある。ダンスのことは、ひとは大抵振り付けのことだと思っているし、振り付けの洗練こそがダンス芸術の課題だと思っている。フォーサイスやマリー・シュイナールの先日の公演とかを観ているとそういう通念が極めて強く存在していることに気づく、そして少し寂しくなる。

そして、ぼくが(そして「即興演技」を尊重するグリーンブラットが)考えている近代的主体のダイナミックなあり方の可能性は、いまや殆どひとから期待のかけられていないもの、であるのかも知れない。ぼくは、この「即興演技」の可能性を考える「明るさ」を持ち続けたいと考えている、けれど、例えば、ポツドールやチェルフィッチュが現実を描く描き方が、こうした人間の可能性に注目していないという事実は、忘れることはできない。

ところで『RATIO 1 ラチオ01号』(講談社)という雑誌を読んでいる。その小泉義之「自爆する子の前で哲学は可能か --あるいは、デリダの哲学は可能か?」は、すごい論考だとぼくは思う。世界を「決まりきった世界」と認識する絶望的な決定論的思考から、脱構築の思考は新たな事態を切り開いてくれるように見える。けれども、それは現実的にはいったい何をもたらしているのか。脱構築は決定論に対し別の視点を与えることで(再)解釈の可能性を与えるものかも知れないけれども、同時に、あらゆるところに脱構築的「改憲」が行われることで、自由は喪失し、その一方ですべてが経済的な機構のなかに巻き込まれることになる。そこでは、死は(さえ)出口ではなくなる

「実際、デリダは、「脱構築の名において」、決定不可能なゾーンに新たなルールを構築することを推奨する。状況によっては、自爆テロの暗黙のルールを明示化することを推奨したかもしれない。しかし、奇妙ではないか。世界に脱構築の実践しかないからこそ、死が出口に見えたのではないか。その死をも脱構築の実戦の対象にしたところで、死んだ者には何の関係もない。むしろ、自らの死までもが経済に巻き込まれ、脱構築的な改革に引き込まれることに、世界の底知れない善意ないし悪意を感ずるのではないか。それとも、純粋な贈与が各種の経済に汚されると知ることをもって自ら死ぬことの愚かさを悟るのだとでもデリダは言いたいのだろうか。あるいははまた、自爆テロが結局は不純な仕方で利用され尽くすことを事前に知れさえすれば自爆を踏み止まるとでも言いたいのだろうか。」

さらに小泉氏は、デリダのもつより重要な局面は次のことだと議論を進めていく。

「動物と漠然と呼ばれているもの、したがって、ただ生きてしてそれ以上のものではない生き物」は、「法や権利の主体ではない」

こうした、「生きているか死んでいるか定かではない状態」に置かれた状態のひとこそ、小泉氏によれば「脱構築の決定不可能な最悪のもの」に直面するひとであり、であるからこそ、「最悪の状態であるにしても、決まりきった世界、脱構築だけが進行する世界において、底知れぬ善意や悪意の歯の立たないような最善のものを告げる予兆であるかもしれない。そして、自殺に失敗した若者、自爆に失敗した女性、死線を潜り抜けた病人は、明日の哲学者の予兆であるかも知れない」のである。

法や権利の主体ではない「動物」とは、やはりどうしようもなくポツドール「夢の城」の登場人物たちを思い起こさせる。あそこのワン・ルームは、地獄(最悪の状態)だけれど、主体性を発揮した瞬間すべてが秩序化と再秩序化の波のなかで形をなくしてしまうそんな主体でいることからの回避を可能にする特区でもある。グローバル化の避難民として彼らがいるということは、「夢の城」に対して考えられる一つの解釈ではないだろうか。けれども、彼らは避難民であって、そこからどうサヴァイヴするかはやはり徹底的に他人任せであって、彼らの非難もまた脱構築されて、ある種のレールのなかに置かれてしまう。

さて、もう少し、小泉氏の意見に耳を。

「「生きるのに疲れた」「生きているのがシンドイ」「生きるのをやめたい」「死ぬ自由ってあるよね」。ならば、死んだことにすればよい。死んだも同然の生、生きたも同然の死、生かつ死、非死かつ非生を試してみればよい。おそらく、デリダが、ブランショのテクストに仮託して言わんとしていたことも、そんなことである」

これは「結び」にあてたられた文章の部分である。ん、ここから少し気持ちが明るくなる。なってきた!生きるという幻想も死ぬという幻想も、決定論と脱構築の運動の中で勝手に消費されてしまうならば、ひとは「生かつ死」を平然と生きればいい。これは、端的に言うと「嘘」をつくことだろう。嘘をつき続けること。それが決定論から自由であることの数少ない手だてなのではないか。それは法の前でそれと付き合いながら自由でもあること、であり、またそうした運動をひとはダンスと呼んできたのではないか。法の空転、「会議は踊る」。同化(同一化)の運動の中に「ゆるみ」を保つこと。そして、この「ゆるみ」こそ「即興演技」が遂行される現場のはずだ(おっ、話が円環した!)。


ダンス 即興演技 生かつ死 すべて、同化から自由であるための方法


最新の画像もっと見る