Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

インバルピント・カンパニー「Hydra」(@さいたま芸術劇場)

2007年11月09日 | Weblog
モードに忠実(?)な「ノワールなゴス」といった作品でした。前半は、多幸症的で審美的なところがもう本当に最近の傾向だよなー、と思わされ(最近のピナ・バウシュを見て感じさせられるような直感的で審美的で反反美学的な姿勢)正直うんざりだったのですが、最後の5分くらいで、「黒」という色が立ってきて(照明が邪魔してダンサーたち、男たちも女たちもモノトーンの服装だったことがカーテンコールの際に分かったのですが)、とくに、背後の一文字の枠がロバートモリスの作品みたいにぬぼーっと浮いているのが印象的で、ぞくっとするような自閉がファンタジーの核心にあると感じ、そこが(そう感じさせられたことだけ)面白いと思いました。あと、恐らく、いやほぼ間違いなく、ニジンスカ(バレエリュス)の『ノーチェ』が参照されていることも、興味深い点です。10人程の顔を上下一文字に並べるとか、終わり頃に出てくる口に長い結った髪をくわえたところとか(確か似たような長い髪が『ノーチェ』にも出てくると思うんですが)。以前この『ノーチェ』を見た時に、あまりに現代的で驚いたんです。そしてそれが現代的に映った理由の多くは、そのゴス的なテイストにあったのですが。

ところで、夏休みに「さいたま」から依頼があり、以下の原稿を書いたのでした。しかし今日、会場ではとくに配布されておらず(笑)、あの苦心した自分とこの原稿がかわいそうなので、ここにアップします。いろいろあって、最初のバージョンではもっとゴスロリのこととか確か書いていたんですが(内向的な彼らの作風に一番反応出来るのはゴスロリ系だろうと思っていたので)、今にして思えば、そのことこそ書き込むべきことでした(嗚呼)。

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空想癖のあるふたりの女の子と男の子の手による1冊のスケッチブック----イスラエルの振付家・インバル・ピントが演出家・アヴシャロム・ポラックとつくりあげるのは、そんな舞台だ。コミカルでちょっとグロテスクなイメージが、インバルとアヴシャロムの心のなかからこぼれて、舞台の上で生命をえる。『Oyster』(1999)では、背中にロープの括られた人形っぽいキャラが宙を舞い、『boobies』(2002)では、スカートに何匹も子ども(?)を隠した巨大な怪獣が長い腕を振り回し、最近作の『shaker』(2006)でも、スリップドレスのダンサーと交替で全身タイツの異世界人たちが手をつないで踊りに耽る。それにしても「~になりたい!」とか「もし~が…だったなら!」とか無邪気な子どもっぽい願いを、絵画や映像ならともかく舞台で叶えようなんて、なんという無茶をやってしまうことか。

「ヒト」というものの輪郭を崩して「異形の物体X」に変身したい。そんな願望はでも、彼らのみならず、人類がダンスというものへずっと寄せ続けてきた思いというべきなのかもしれない。

例えば、19世紀のロマンチック・バレエの時代、バレリーナは舞台上にふわりと浮かぶ妖精でなければならなかった。あるいは、20世紀の初頭----アンドロイドやロボットが流行しはじめた時代----、ロイ・フラーは身の丈を超える大きな布を蝶のようにはためかせ、オスカー・シュレンマーはダンサーに幾何学的な形状のコスチュームを着せることで、ともにヒトの輪郭をはみだした奇妙なキャラを踊らせたのだった。戦後の日本に生まれた暗黒舞踏も同様で、創始者・土方巽は、けものや幽霊や剥製の状態に、彼の理想とするダンスの姿を見たのだった。あるいは、アフリカ大陸にいまでも残る、仮面や奇抜な衣裳をまとった伝統的で祝祭的な踊りを振り返ってみてもいい。そう、ダンスとはその本質においてトランス(忘我)することであり、トランスフォーム(変貌)することなのだ。

さて、彼らの場合、舞台上に展開するファンタジックな変貌はすべて、インバルとアヴシャロムのきわめて個人的な空想に端を発している。彼らのユニークで現代的な点はそこにある。作品を構想する際、2人は多くのデッサンを描く。それらはどれも摩訶不思議な、しかし気取りのない等身大の魅力を湛えている。スケッチブックに引いた奔放な1本の線が、まるで飛び出す絵本のように舞台に飛び出す。その線をたどって、ダンサーは変身する。

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