Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

DANCE BITCH!=舞踏病?

2006年05月21日 | Weblog
19日にFATBOY SLIMのオールナイト・イベントに行ってきた。

その前に、上尾信也『歴史としての音』(西洋中世の音楽研究)に所収された「ダンスダンスダンス」の節などに目を通す。さらにそこから芋ずる式に、『現代思想』の15年ほど前の特集「もう一つの音楽史」に所収されたやはり上尾氏の中世から盛期ルネサンスにかけてのダンス様式史のチャートが手にはいる(写真)。

このチャートのすばらしいのは、「専門の踊り手による場」(A)「宮廷の場」(B)「民衆の場」(C)とダンスをそれが踊られる場に応じて分類しているところだ。こういう分類によって、普段アカデミックな議論の場では見過ごされがちな(B)(C)の場でのダンスがフォローできる。この三種を現代に置き換えれば、(A)はプロダンサーによる劇場の場(B)は社交ダンスの場(C)はクラブやレイヴなどの場ということになろうか。

で、この夜は、(C)で遊ぼうと幕張メッセへ。FATBOY SLIMはCDで聞く以上にシンプルなビートで、盛り上がれば盛り上がるほど、単なる熱の上下をコントロールしているだけじゃないかと思ってしまうが、それに踊らされてしまうのだ。熱の上下にただ身を委ね、いたるところで突発的に、でたらめにあばれたりするだけの観客の異様な幸福感(もちろんぼくもそれを感じてしまう一人だったりするわけだけれど)。1万人は集まっただろう波の中で、舞踏病としてのダンスはいまこんな感じでここにある!などと上尾氏のチャートを反芻しながら思ったり(「現在と同じように当時の人々にとって、踊ることは娯楽をこえた何らかの「魔力」であった」上尾氏)していた。それを支配する神は、なんか「音楽をする高田純次」みたいで、ひたすら無意味なのだった。これは、音楽の聴取、なんてものではなく、ただ造波プールの遊びなのだった。

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