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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ダンスは聴覚的なもの2

2006年09月15日 | Weblog
以下、ほとんど自分用の備忘録です。

ダンスが聴覚的なもの(非視覚的なもの)であるとすれば、それはまずは内的なもの、受容するもの、受け止めて感じて体が動くと言うことだろう。ジャドソン・ダンス・シアターの全てに当てはまるかは分からないけれど、例えば、トリシャ・ブラウンがこう言うときに、これはまさに、受動的な運動の内的な感受からダンスが始まっていくプロセスとして理解できるだろう。つまり、ディスコでミニマルな反復的な音楽を聴いているうちにハイになっていくように、箒を動かしているうちにブラウンの体はハイになっていた。

「アナ[・ハルプリン]のところでは、インストラクションのないまま押し箒を持たされた。このワークショップは夜3時間続き、夜中にうるさくしすぎて、警察が来て一部は止めさせられたり。テンプル山の野外デッキで。ハマってしまって一時間でも、もっと長い時間でも、デッキの隙間から埃を掃き出す作業をやっていた。そのうち私はもう箒とその行為とアクションと一つになってしまい、箒の柄を軸にして、後ろ足でつっぱって、自分を空間へ押し上げ、箒を持って宙に浮いてしまいました、箒も体も床に水平の位置でね。これは、とても深い、深い経験となりました。」(DVDパンフ)

で、こうなってくると、ジャドソンのミニマルなダンスは、見せるものとしてよりは感じるものとして、つまりここでのダンサーは観客を意識した存在と言うよりも、むしろ自らが観客のようになってダンスを感じる存在だということが明らかになってくる。だから、タスクな動きを進めていくことは、それを見る側以上にやる側にとってダンスを生む方法なのだ。タスクな動き、言い換えれば単調で機械的で一定の速さの無味乾燥した動きが心地よくなってくるのは、ダンサーの側だ。見る者は、ダンサーが内側で気持ちよくなっていくのを外側から眺めなくてはならず、そもそもが非視覚的な何かを視覚的に受け止めざるを得ない。観客は傍観せざるを得ない→観客は退屈を余儀なくさせられる。

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