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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「国民」「日本」とは誰のことか

2005年08月22日 | Weblog
もはや「民主(主義)」など理念を謳うことには、意味がないというのか。イデオロギーが党の名前であった時代から、新しい時代に変わったということなのか。では、どんな時代に?「国民党」「日本党」この党名の意味するところは何か。

これは昨今の政治家が百人いれば百人言っている「国民の声を聞いて政治をやらなければならない」という言葉に即応している。百人百色の政治的立場をもっている「はず」の彼らは、当然、「国民」といったときに念頭に置いている顔は違うはずだ。本当は「ローカル」「特殊な」誰かを念頭に置いているはずなのに、「国民」という抽象語でその実相を覆い隠してしまう。全体をみているようで、実は部分しかみていない。部分しか反映していないのに、全体のためにしているかのように振る舞う。どうせならもっとはっきり立場を鮮明にすればいいのにと思う。社民党は、貧乏党でいいじゃないか。あるいはマイノリティー党でいいじゃないか。でも、立場を明確にしてしまうと、その立場とは別の立場に立つひとには見向きもされないということにもなりかねないのはそうなのだけれど。

それにしても、党名が「国民」とか「日本」て。選挙民に対して鏡像的関係であろうとしているのは(そう解釈できます、が)、恐い。わたしはあなたであなたはわたしで、ということなのか?この近接した国民との関係こそ、国民のためにという名のもとで起こる不安定なグルーヴを予見してしまう。明日戦争をするべきか否かなんて瞬間がもし仮に将来訪れた時に、国民の声を聞くなんてことするのかな。そんなことしたら、どういう危ない竜巻が生じることだろう。あるいは我々は国民と一体です、とか称して一直線で行ってしまうのか、恐い。この恐さは、イデーが欠如しているところにある。やはりカント=近代的主体の論理はいま放り捨てていいものではないのだ。民主主義の理念よりも、「国民」「日本」という鏡像関係の方が、いまの政治家にとって魅力的というのは、んーん、いかがなものか。

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