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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

観念論と唯物論

2006年07月09日 | Weblog
ダンスと「唯物論」との関係を考えた記事を以下にまとめてみた。

2005.4.23
2005.8.15
2005.8.28
2005.8.28
2006.4.2
2006.4.23

読み返すとまだまだ議論が出来てないですね。反省。でも、このあたりのことがやはり重要かと考えているのです。

ところで議論が迂回しますが、最近ぼくは本田透『電波男』を読んでいたく感動しました。オタク的心性がきわめてクリアに呈示されていて、フィギュアや「萌え」概念について考えていた昨今、ひとつの啓示を与えられた気がしましたし、もはや生き方の知的指南の書としては現代の『構造と力』と言うべきじゃないか、とさえ思ったのでした(あと、さらに余談ですが、これほど読んでいて楽しい本も最近なかったと思いました。何でしょう、しゃべり口調の文体で、「な、なんだってー?」「~なんだYO!」「ドーンドーンドーン!」なんて頻繁に出てくるキメぜりふは、読んでしばらくの間感染してひととしゃべっているとつい出てしまいそうになったり。このしゃべり軽妙さ面白さは何だ?そうか、これはおすぎとピーコ的なる何かだと思っていると、両者には、マチョな男-性を降りているという共通点があることに気づいた。マチョから降りたひとのおしゃべりは面白いと、これはきっと真理です)。

本田氏は、恋愛資本主義に毒された状態、つまりDQN(モテ男?)に翻弄されて結局は性欲の奴隷になっている男女関係から降りて、脳内恋愛に向かえと読者に諭します。そこにしか真に純粋な恋愛はないから、と。つまり、オタクは純粋な恋愛を求める探求者なのだと、そして「萌え」とはプラトニック・ラヴなのだというわけです。それはつまり、観念の中に作った聖域の中で、社会の「嘘」に抵抗しながら自らの理想を築きあげようとする営為であるというわけです。

極めてクリアだし、道理の行くところもある考えなのですが、読んで感動して4、5日たって何か違和感を感じている自分に気がつきました。その理由がさっき分かったのですが、要するに、本田氏の思考、そしてそれが描き出す「萌え」の思考はあまりに忠実に哲学的(観念論的)なのです。そこに強い不満があるのでした。彼は頻繁に哲学者の名前を挙げます。そして挙げた哲学者がほぼ全て童貞だったことに注目し、哲学的真理探究とオタク的恋愛探究の相似性を説いていきます。それが説得的であればあるほど、オタクの限界と今後の流行の可能性も見えてきます。簡単に言えば、オタク的心性は「形而上学的」なのです。要するに、独り言であり、「脳内」的自閉であり、その意味で極めてマチョです。「他者」がそこにはいません。自分に都合の良い「萌え属性」があるだけです。であるからこそ、今後時代を牽引する思考がここにある、といえるかも知れません。そして、であるからこそ、なんかまずいなーと思ってしまうのです。

ダンスはこの「萌え」の感性とどうつきあっていくのか、このことに興味はあります。けれども、いまは「萌え」=「観念論」と対蹠的な思考をダンス見出すことが出来るのかにまず言及したいと思います。

ぼくにとって矢内原美邦『青ノ鳥』は、ぼくにとっていわば「唯物論」的な公演でした。そこにはセンチメンタルな「観念論」に陥りそうになりながらもこらえ、むしろそれを蹴り飛ばそうとする姿勢があったと思います。ぼくは先日書いた拙ブログの感想で、今作は「マンガ」だ、と書きました。けれどもそれは「萌え」とはほとんどまったく関係がない。なぜならば、それは「マンガ」の擬人(ダンス)化ではなく、ダンスのマンガ化だったと思うからです。換言すれば、ダンスをマンガという「もの」の次元に接近させること、そうぼくには見えたのです。

誤読かもしれないけれど、この感覚は『駐車禁止』で感じた「何か」です。「何か」とは、JCDNのレヴュー・コーナーに投稿してある文章に書いたのですが、そこで、ダンサーは路上の「もの」(車など)を擬人化したのではなく、自分を車(もの)化させたのだとぼくは評しました。

『青ノ鳥』はぼくにはマンガみたいだったけれど、それは「マンガ的なるもの」の観念(ないしイメージ)を反復していたということではなく、マンガが表現する身体や吹き出しの長ぜりふやコマ変わりなどに身体をそわせようとしていたように見えたと言うことです。それは無茶です、不可能です。誰も、どんなダンサーもマンガのキャラみたいな身体にはなれないし、あんな風に動いたり体をデフォルメさせたり出来ません。でも、そうした「縛り」を課したことが、あの舞台をいきいきとしたものにしたのではないか、と考えたいのです。ダンサーはともかく課せられた仕事を一生懸命こなしていく、そのことに一途になっていく。そうすることで、身体が「もの」レヴェルに近づく。そういったことがおきていたのではないか、と。(もちろん、そうぼくが深読みをしているだけで、かなりの確率で「誤読」だと、つまり必ずしも接近しようとしたものが「マンガ」ではない可能性はあると思うのですが。)

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